邪馬台国はどうなった?

1)古事記と出雲大社に残されていた痕跡

 出雲にあった都・邪馬台国が、どうなったのかと考えますと、まず思い浮かぶのは、古事記に登場する『国譲り』のストーリーです。
 天照の命を受けて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、出雲の伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜で剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫り、大国主命は国を『献上』すると言ったとされています。
 その稲佐の浜では、毎年旧暦の10月10日に神迎祭が、そして、その翌日から1週間、神在祭が仮宮を中心として執り行われています。その仮宮は、奉納山のふもとにあり、出雲大社に残る古絵図では、仮宮は、当時の浜辺に位置しています。
 その神在祭には全国の神々が集まり、他の地域では『神無月』ですが、出雲では『神有月』と言われます。そして、その神在祭の期間中、出雲大社の周辺では、大きな音をたてない、歌舞音曲の類いは控える、大工仕事はしないなどなど、ほとんど謹慎し、静かにしているので『御忌みさん』とも呼ばれています。お祭りとはほど遠く、ほとんど葬儀か法事のごとくです。
 これらの一連のことから推測され、行き着いた結論は、出雲にあった都は滅ぼされたということでした。そして、そこに居た大国主命は抹殺され、その命日が旧暦の10月10日で、毎年その冥福を祈って、全国の神々が集合し、神事が執り行われているという認識にも至りました。その集合場所である仮の宮の位置こそが、大国主命が抹殺された現場なのでしょう。
 では、出雲の都、邪馬台国を征服したのはどういった勢力だったのでしょうか。
 それは、出雲大社に残されていました。出雲大社の出雲国造家の神紋は、亀甲に剣花菱で、剣花角とも言われます。花菱は、唐花、唐花菱とも呼ばれ、その花菱に剣が組み込まれていますから、まるで剣で唐が征服したと伝えているようです。
 そして、出雲を征服させる指令を出したのは、天照ですが、今もわが国の最強の神社である伊勢神宮で奉られていて、その神紋は花菱です。剣は描かれていませんから、唐そのものを意味しているようにも見えます。
 こうしたことから、この列島の当時の都・邪馬台国は、唐王朝によって滅ぼされたのではないかということが見えてきました。

2、唐王朝の歴史・・・国譲りのルーツ

 唐の歴史を調べていきますと、今まで良く分からなかった事や謎だった事が、次第に紐解かれていきました。まず、唐に先立つ隋ですが、581年に楊堅が隋を建国し、589年には中国全土を統一します。しかし、統一はしたものの、第2代煬帝で隋は滅んでしまいます。
 煬帝は、高句麗遠征を3度も試みるのですが、ことごとく失敗し、内政においても、百万人もの民衆を動員して華北と江南を結ぶ大運河を建設したり、さらに民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥ります。その混乱に乗じてとばかりに、隋の武将でもあった李淵は、首都大興城を陥落させ、煬帝を太上皇帝に奉り上げます。そして、617年、煬帝の孫、恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握しました。
 その翌年、江南にいた煬帝が近衛軍団に殺害されると、李淵は、恭帝から『禅譲』を受けて即位し、唐を建国しました。とは言え、隋も唐も同一民族による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う『政権交代』です。
 皇帝の地位をそれに相応しい血縁関係にある者へ引き継ぐ場合は、『譲位』とされますが、そういった血縁関係に無い者へ『合意』の上でその地位を引き渡すことが『禅譲』とされています。『禅譲』の多くは、強制的に皇帝位を奪い取った者による、その征服を正当化するための欺瞞的手段で、実質的には『簒奪』とも言えます。あくまで、征服者・勝者にとっての都合の良いやり方です。
 まずは武力でもって制圧し、その後に都合よく、まるで強制ではなく譲られたんだという形で皇帝位に就くわけです。煬帝が、ことさら暴君だったと描かれているのも、その李淵による『簒奪』を正当化しようとするものなのかもしれません。これが、唐王朝を築いた李淵の手法です。
 ここから、古事記における『国譲り』のストーリーの意味が見えてきました。つまり、『国譲り』とは、唐王朝が、出雲王朝を征服したにも関わらず、『譲られた』とする彼らの手法『禅譲』だったのです。さらに、大国主命から『献上』されたなどと、都合よく侵略行為を美化しています。ですから、煬帝と同様に、この列島の始祖神であった『スサノオ尊』も悪行三昧の荒神に貶められてしまったのかもしれません。

3、天照=武則天の指令によって滅ぼされた邪馬台国

 唐王朝第2代皇帝李世民太宗の時代は、『貞観の治』とも言われ、善政だったと評価もされていますが、第3代皇帝李治高宗の時代になると一変します。
 649年、李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実権を掌握します。武則天は、14歳で第2代太宗の後宮に入り、その後李治高宗に取り入ります。その高宗との間に娘が誕生するのですが、武則天は、わが子を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
 皇后となった武則天は、その王前皇后等を虐殺しています。武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命してしまいます。こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用しますが、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させました。
 ですから、漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称されてもいます。
 武則天は、道教の思想に基づき、660年、皇帝を『天皇』とし、皇后を『天后』と改名しています。これが今にまで続く我が国の天皇の『ルーツ』です。しかし、705年武則天の退位とともに、再び天皇は皇帝に戻されてしまいます。
 つまり、天皇のルーツが、武則天にあり、我が国では、天皇の祖先は『天照』だとされています。
 この唐王朝第3代皇帝李治、そしてその皇后武則天の時代に、この列島が占領・征服されたのではないかと考えました。これこそが、古事記に残されている『国譲り』の本当の姿です。天照の命により、当時この列島の支配者であった、今で言う総理大臣に相当する『大国主命』が、天照の手下によって惨殺されます。その弔いが、今にも続く『神在祭』です。
 『天皇』という名称を生み出した皇祖『武則天』は、この列島では『天照』として今に至るまで、わが国における最強の神として伊勢神宮で奉られています。武則天は、624年生まれで、幼名、あるいは本名を『武照』と言います。武則『天』が武『照』で、まさしく、『天照』です。

4、史書に残されていた侵略者の言葉

 この列島が唐王朝に征服されていたことは、出雲王朝の歴史と同様に、1300年にわたって、我が国においては消された歴史でした。しかし、そのすべてを消し去ることは不可能です。この列島にも、大陸にもその痕跡は残されています。
 大陸に残された資治通鑑には、その侵略の当事者の姿が残されていました。資治通鑑は、北宋の時代、1084年に司馬光によって作成されています。紀元前403年から954年、北宋が建国されるまでの歴史が、編年体で記されています。
 では、その資治通鑑に、この列島がどのように描かれているのか見ていくことにしましょう。
 660年に百済と高麗は新羅を攻め、新羅は唐に救援を求め、朝鮮半島は大きな戦乱状態に陥ります。唐王朝は、この期にとばかりに、念願の東アジアの制圧を目指します。
 その戦乱の中で、唐の武将劉仁軌は、監督下にあった兵糧船が転覆したため、処分を受けてしまいます。翌年、唐軍の武将劉仁願は、百済府城を占拠するのですが、逆に百済軍に包囲されてしまいます。そこで唐は、仁軌に新羅軍とともに仁願を救援するように詔を発します。前年に処分を受けていた仁軌は、名誉挽回とばかりに大いに奮起します。
 その折に、仁軌は、「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!」とその征服欲を赤裸々に語っています。東夷、つまり百済や倭国などに住む東方の夷人を一掃して平定し、大唐帝国の正朔、すなわち暦を頒布するということは、征服して唐の暦で支配してやるということで並々ならぬ気概を燃やしています。
 そして、仁軌は新羅の兵と合流して、百済軍を攻撃し、打ち破りながら進軍していきます。その結果、百済は万余人が戦死、溺死したとあります。
 さらに戦闘は激化し、662年、百済は、倭国にも援軍を要請してきます。
 一方、唐王朝も同年12月、いよいよ高麗・百済討伐の詔を発します。
 その翌年663年の9月、熊津道行軍総管、右威衛将軍孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、仁軌等は、水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向い、倭兵と白江口にて遭遇しています。これが、『白村江の戦い』と言われており、仁軌軍は、四戦して全勝し、倭国の舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったと記されています。
 倭国、つまり出雲王朝は、5万人とも言われる軍勢を百済救援へと送り込みましたが、ことごとく殲滅されてしまいます。その直後に百済は滅ぼされてしまい、倭国もその主力部隊を失ったため、この列島は仁軌率いる唐王朝軍にあえなく占領・支配されることになってしまいました。
 百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていたとありますが、この列島も同様の状況下にあったことでしょう。
 そして、仁軌は、屍を埋葬させたり、戸籍を作り、村へ人を集め、道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強するなどといったことも行っています。つまり、戦後復興という『マッカーサー』的な役割をも果たしています。農耕対策、貧民救済、孤老対策や、当初述べていた唐の正朔を頒布したともあります。仁軌は、その後に屯田を置き、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図ったとあるように、反抗する勢力を一掃した後、そこを唐の勢力下にしています。
 つまり、その戦後復興といった行為も、朝鮮半島を高麗征服の拠点にするためというのがその目的だとしています。
 その翌年、664年の10月、仁軌は、皇帝にいくつかの進言をしています。
 そこには、貴重な資料となる事柄が述べられています。
 仁軌は、現地の守備兵について『疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません』とその状況を伝えています。
 その守備兵が言うには『かつては、出征すると褒章が与えられ、海を渡れば勲1等を賜ったものだ。近年は、海を渡る者の名前さえ記録されず、戦死しても誰が死んだのかすら聞かれることもない。富める者は若くてもお金を渡して出兵から逃れ、貧しい者は老人でも連行されてしまう。出兵したらいろいろ強制に追い立てられ生きることすらままなりません。公私共に困弊し、言い尽くすこともできません。ですから、出兵に引っ張り出されるとこき使われるので、百姓は従軍を願わないのです』と紹介しています。
 そこで仁軌が、その兵士に『往年の兵士は五年でも留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ』と聞きます。
 これらのことから、唐王朝軍によりこの列島が侵略されたのは、664年秋の1年前だということが分かります。
 仁軌は、さらに重要なことを述べています。
 『陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます』
 先に、唐王朝は、高句麗の制圧を何度も試みてきては失敗していたとありました。
 仁軌も、そのことを述べています。
 そして、高句麗対策として、その同盟国をまず制圧し、そこを高句麗攻撃の拠点にするために唐は兵を置いていると、この列島の侵略や占領の目的を記しています。
 この列島の制圧も高句麗対策の一環だったと仁軌は述べ、さらに重要なことに触れています。
 『還成一國』
 この列島も百済や高句麗と深い関係があり、守備兵を配置しておかなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べています。
 つまり、卑弥呼のいた女王国の名称が、魏書において『邪馬壹国』とありましたが、それは書き間違いでも認識間違いでもなく『壹国』、つまり『一国』でなければならなかったのです。
 唐王朝は、大倭王のいた出雲王朝・邪馬台国を殲滅し一掃しましたが、そのままにしておけば、ただもとの『一国』に戻るだけで、その地を引き続き占領支配し続けなければ、高句麗対策という列島征服の目的は果たせないと、その思惑を明かにしています。
 この列島は、高句麗制圧のため、そしてアジア一帯を自国の支配下にしようとする大唐帝国構築のために侵略され、その後も高句麗対策などといった戦略のために占領支配が続けられていきました。
 仁軌の進言で、この列島の兵は交代することになり、仁軌も帰国するように促されます。
 しかし、仁軌は、『国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去るのは良くない。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。そんなことをすれば必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。まだ帰るわけにはいかない』と占領支配の陣頭指揮を現地で続けると答えています。
 この列島は、仁軌率いる唐王朝軍によって侵略を受け、その後も占領支配が続けられ、唐王朝の支配が確立するまで、仁軌はこの列島で指揮を執っていたようです。
 まさしく、劉仁軌は、第2次大戦後の『マッカーサー』といったところのようです。
 これ以降、唐王朝は、唐(藤)を源(原)にするという意味で、藤原氏を構成し、王朝を補佐する佐藤、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤など全国に支配勢力として派生していきます。そして、その後も彼らによって占領支配されたまま、政治・経済・文化・歴史などなどあらゆるものが彼らに都合よく作り替えられ、その支配は今も延々と続いています。
 我が国の歴史が混沌としているのは、唐王朝によって我が国が占領征服され、彼らに歴史まで奪われたことにすべての要因があります。 つまり、我が国の本当の歴史を理解しようとすれば、唐王朝による占領征服されたことが認識できなければなりません。
 それが認識できない限り、我が国の本当の歴史に到達することはできません。