<後漢書>
倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
倭は韓の東南の大海の中にあり、山島に依りて居を為し、凡そ百餘國なり。武帝が朝鮮を滅ぼしてより、使訳の漢に通じる者三十ほどの国にして、国は皆王と称し世世伝統す。その大倭王は邪馬台国に居る。
後漢書は、5世紀になって作られています。魏呉蜀の三国よりも時代的には古い後漢ですが、史書は三国志魏書よりも後に書かれています。そのため、倭については、魏書を参考にしているところもありますが、魏書よりも後の新しい状況が記されていて、極めて貴重な記載があります。
最初は、漢書にあったように、前漢の武帝の頃から交流があったことが述べられています。
そして、目を引くのはその次です。各地に王がいたが、その大倭王がいたというのです。この列島に大倭王が存在していたと述べています。キングオブキングということです。そして、その大倭王は、邪馬臺国に居たとあります。中国の史書で初めて、邪馬臺国が登場しました。
この『臺』の文字が、今のわが国の常用漢字にないため『台』という文字が当てられています。
つまり、この後漢書に登場した『邪馬臺国』こそが、今のわが国で論じられている『邪馬台国』です。
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。
魏書にあったような風俗に関することが述べられた後に、建武中元二年(57)、倭の奴國が朝貢したとあります。そして使者は、自らを太夫と称し、その奴国は、倭國の極南界なりとも述べています。つまり、ここでは、倭国の範囲は、魏志倭人伝に描かれている伊都国の東南にあった奴国が、倭国の南の極限だとしています。
その当時、西都原の卑弥呼の勢力は、その地にまで、まだ到達していなかったか、あるいは史書に描かれるほどの勢力になっていなかった、ということなのかもしれません。
次に光武帝が奴国に印綬を授けたともあります。これが、志賀島で発見された金印のことだとされています。その金印は、江戸時代、島の南の畑地のようなところで発見されたことになっています。
しかし、発掘された経緯を調べますと、どうも、その島の最北端にある古墳から盗掘されたものだと考えられます。大陸を一番展望していると言える北端にその古墳があり、金印を授かった王が埋葬されるに相応しい場所です。また、その石室には、盗掘された跡も残されています。盗掘したものの、その金印が、あまりにも歴史的で重要な物だと分かり、盗掘した刑罰を逃れるために島の南から発見されたということにしたのではないでしょうか。おそらく、その金印以外にも副葬品があったことでしょう。
したがって、『発見現場』とされる周辺の調査はされていますが、本来の『発見現場』ではないので、その金印に結びつくような歴史的遺跡といったものは、何も出てきていません。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
安帝の永初元年(107)に、倭國王の帥升等が、生口百六十人を献じて、朝貢しています。
倭国王としていますから、一部のエリアの王というよりも、かなりの大きな勢力を誇っていたと見られます。
後の史書には、『倭面土国王帥升』という記述があるのですが、『やまと国王』とも読めます。あるいは、この列島を大きく支配するほどの勢力だったのかもしれません。
桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。 侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。法俗嚴峻。
ところが、この列島で大乱と記されるほどの抗争が巻き起こっています。
後漢の桓、靈間といいますと、桓帝は、146年から167年、靈帝は、168年から189年の間となります。
つまり、およそ西暦150年から190年頃まで、この列島のかなりのエリアで、およそ40年間にもわたって『相攻伐』というほどの戦闘状態にあったと記しています。
その騒乱状態が続いた後、卑弥呼が女王として『共立』されたとあります。
つまり、卑弥呼が、女王としてその地位に就いたのは、西暦190年頃だとなります。
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國。人長三四尺。自朱儒東南行船 一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。
魏書にも同様の記述がありましたが、女王国から東に海を渡っておよそ50km行くと拘奴國があったと述べています。南九州から瀬戸内海を東に行き、紀伊半島に上陸しておよそ50km行くことになります。
このことは、卑弥呼は、九州の地にいたということを再確認していることになります。
したがって、大倭王が、『邪馬臺国』、つまり『邪馬台国』にいたという記述とは別に、女王国を紹介しているということは、卑弥呼は『大倭王』でもなく、『邪馬台(臺)国』にもいなかったということにしかなりません。
ほとんど、今のわが国の『常識』かのごとくに思われている『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズは、全くの誤りだということになります。
ところが、歴史教科書でも、まるでわが国の歴史の前提かのごとくにされています。
このように、卑弥呼は『邪馬台(臺)国』になど居なかったにもかかわらず、『邪馬台国の女王卑弥呼』という認識が、周知徹底されています。
したがって、『邪馬台国の女王卑弥呼』という認識にある限り、『邪馬台国』には行き着けません。
卑弥呼は、九州の西都原にあった女王国『邪馬壹国』にいました。そして、そこには大倭王も居なければ、『邪馬台(臺)国』でもありません。
つまり、ここにこそ、『邪馬台国』へ行き着けないトリックがあったのです。
<宋書>
倭國 在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰 「倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、 讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國
諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正。詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人。平西、征虜、冠軍、輔 國將軍號、詔竝聽。
南朝宋の史書は、488年に完成したとされています。
そして、宋書では、所謂倭の5王と言われる『讃、珍、済、興、武』について書かれています.。
そこには、『使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王』と称していたとあります。
つまり、倭王は、朝鮮半島を制して大きな勢力を確立していました。そして、倭の5王は、後漢書にも登場した大倭王だということも見えてきました。それらの大倭王が存在していた場所こそが邪馬臺国です。
順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國
また、その倭王武が、宋の順帝へ昇明2年(478)に、上表文を送っています。
それによると、『倭国は中国から遠く、わが祖先は、自ら甲冑を着て山野を駆け巡り、東へ西へと諸国を征し、また海を渡って海北の国もその支配下にしてきた』と述べています。つまり、3世紀から4世紀に大きな力を持つ勢力が出てきたのは、この倭の5王の勢力だったのです。
その上表文は、さらに、高句麗を討つ様に奨めています。倭王が、朝鮮半島まで攻め入ったものの、高句麗と対峙していたようです。
これは、好太王碑に記されている記述とも合致します。
<隋書>
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、 但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
唐の時代、636年に隋書が作成されています。そこには、今まで以上に興味深い資料が盛り込まれています。
まず、倭国の地は、水陸3千里、つまり、対馬国まで千余里、さらに一大国まで千余里、さらに末盧國まで千余里とありましたから、上陸地点を指しているようです。今までの史書には、倭人としかなかったのですが、夷人という表現が出てきました。そして、その夷人は里数を知らず、日でもって計っているとあります。つまり、それだけ広範囲での移動をしていたということなのでしょう。今までは、倭人としていましたから、在来の民族とは違う民族だといった認識があったと考えられます。
また、倭国の境界は、東西が5ヶ月、南北が3ヶ月行く程の広さだとしています。そして、東西南北それぞれが海に至るともあります。東が高くて西は低いとありますから、東は関東地方から西は九州地方までをその勢力下にしていたと考えられます。
その都は、邪靡堆、つまり邪馬臺であると述べています。さらに、その邪馬臺は、魏書にも登場しているとしています。つまり、魏書には『邪馬台国』について記載されているということになります。
先に、検証した魏書のどこにも都を意味する邪馬臺といった表現は出てきませんでした。ですから、『所謂』としています。魏書には、直接的ではなく、都であるところの『邪馬臺』を意味することが描かれていると隋書では述べています。
では、魏書の何処が、その『邪馬臺』の記述に相当するのでしょうか。
これまでの史書では、卑弥呼は、あくまで女王国の卑弥呼であって『邪馬臺』にいる王という表現はどこにも出てきませんでした。唯一、後漢書に『大倭王』の居するところの『邪馬臺国』という記述がありました。
そして、その『大倭王』は、倭の5王でもありました。つまり、魏書に登場していた『倭王』の地が、『邪馬臺』だということになります。
では、魏書を、もう一度振り返ってみましょう。
景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼
景初2年(238)6月に、倭の女王が使者を送り様々な貢物を献上し、その同年12月に魏は、卑弥呼を親魏倭王とする詔書と金印や銅鏡などが与えられたとあります。
これについては、先に検証したところです。
正治元年,太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦?、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆
魏は、ここに登場する『倭王』に使者を送り、詔書と印綬や様々な品物を授けています。そして、それらの行為を、『詣、奉、拝』といった、仰ぎ見る言葉で表現しています。
それに対して、倭王は、その使者に謝意を示し、同4年に、倭国の使者を魏に送り様々な貢物をして返礼したとあります。
ここが、隋書の言う『則魏志所謂邪馬臺者也』と指摘している部分です
魏書も後漢書も、倭王と倭女王という表現は、同一の人物としてではなく、別の王を意味するように描かれています。あくまで、卑弥呼は、『倭の女王』という表現になっています。
つまり、その当時、この列島には、大きくは、倭王と倭女王の2つの勢力があったという事になります。
『日本書紀私記』には、『北倭』と『南倭』とがあったという認識も示されています。すなわち、『北倭』であるところ大倭王の居するところの都『邪馬臺国』と『南倭』であるところの倭女王の居する『邪馬壹国』とが存在していたのです。
この倭王の地が、隋書の言う『則魏志所謂邪馬臺者也』が指摘していることだと考えられます。
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天爲兄、以 日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大徳、次小徳、次大仁、
次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。
そして、その倭王が登場しています。倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩き彌、おおきみと呼ばれていたようです。
この倭王は、開皇20年(600)に使者を隋に送りました。その使者が、訊ねられて答えています。
『倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。 そして、天が未だ明けざりし時、出でて政を聽き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停めて、そして云う、我弟に委ねん』
ここには、倭王が、天と日の関係を兄弟のように紹介しています。それは、この列島の国家的象徴と実質的支配者を意味しています。この世界を包括するところの『天』ですが、しかしその『天』には支配力はありません。その力を持っているのは、太陽、つまり『日』です。この宇宙全体を含む概念を、国家形態に反映させていると考えられます。ですから、国家的象徴の『天』は、夜が明けると同時に、実質的支配者であるところの『日』にすべてを『委ねん』と言うのです。
では、この国家形態は、いつ誕生したのでしょう。先の後漢書でも検証しましたが、西暦190年頃に卑弥呼が女王として『共立』されています。この時に、この国家的象徴の『天』が誕生しています。40年にもわたる抗争の末、統一王朝が誕生したのです。
『天』という文字は、『一』と『大』によって構成されます。つまり、卑弥呼の国は『邪馬壹国』、それは『一』です。そして、出雲は『大国』、『大』です。
卑弥呼の里、『日向国』の一宮『都農神社』の神紋は、○の中に一で、その『一』が残されています。
出雲では、亀甲に大の文字の神紋が残されています。すなわち、『一国』と『大国』は、190年頃に誕生し、その大国の主、今で言う総理大臣に相当するのが大国主命で、その後代々引き継がれていきました。そして、その初代大国主命がスサノオ尊です。
『卑弥呼』は、大陸の王朝による蔑称であって、わが国では、万葉集に『日皇子(ひのみこ)』として描かれています。そして、その『一』は『大』の上にあり、『大』は『一』の下に位置します。
スサノオ尊は、卑弥呼の国を『一』として上に奉りますが、『大』があってこそ『一』は、上に位置することができます。
このように、国家的象徴として卑弥呼は君臨しますが、一方で、スサノオ尊の勢力は、『大』として『一』を奉りながら、実質的支配者として勢力を強めていきます。
ところが、隋の皇帝は、その国家形態に道理が無いとして、訓令でもって改めさせたとあります。
また、その国の官位には、『徳、仁、義、禮、智、信』とあり、それぞれに大小があるので、12階ということになります。つまり、官位12階という形態を600年に隋に行った使者が紹介しています。ところが、わが国の歴史にあっては、聖徳太子が、603年に『官位12階』を導入したとしています。そんなことは、あり得ないことです。また、ここに登場する倭王は、推古天皇だとされています。推古天皇は、女性の天皇です。この倭王には、妻がいると記されています。女性の天皇に妻があるはずもありません。架空の歴史物語が創造されています。
大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
大業3年(607)に、その倭王は、隋に使者を送ります。先に送った使者が、倭国の国家体制について述べたことに対し、隋の皇帝は、訓令で以って改めろと命令を下しています。
それに対する回答が、この国書であるとも言えます。使者が届けたその国書には、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」とありました。
大業3年と言えば、第2代皇帝煬帝が即位したばかりです。その即位の祝賀といった使者に携えられた国書は、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』といった、対等の意思表示をした内容となっています。
さらに、隋の皇帝を日が没するところの天子だとしています。彼らにとって日、太陽は、神をも意味します。その没することは、隋王朝の没落をも意味しています。
ですから、隋王朝は、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と激怒します。
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又 至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。
その翌年、隋は、清を使者として倭王のもとに送ります。ここからが古代史解明の最も重要な場面とも言えるかもしれません。ここで言う倭王とは、冒頭にあったように、邪馬臺にいる大倭王です。
とうとう、邪馬臺国の都に使者が行く事になったのです。では、一緒に邪馬臺国へ行ってみましょう。
その使者は、百済、竹島、対馬などを経由して、一支国、竹斯国へとやってきます。竹斯国とは、筑紫国であり、北九州に上陸しました。そこからまた東に行くと秦王国があり、そこの人々は中国と同族のように見えるが真偽は不明とあります。
そして、また10余国経ると海岸に達したとあります。さて、筑紫国から東へ行き、さらに行くという事は、方向としては東方面へ向かっています。そうなると、本州に渡っているということになります。
『達於海岸』
つまり、内陸部を通り、あるいは山地を越えると『海に出た』という表現をしています。海岸沿いを行く人が、こういう表現をすることはありません。では、本州を東に向かい『海に出た』という思いをするとしたらどういう行程なのでしょう。瀬戸内を東にずっと行けば、常に右手に海が見えています。そうなると、考えられるのは、中国山地を越えたということになります。
つまり、下関あたりから、中国山地を超えて日本海側に出たのではないでしょうか。そのルートは、今も国道9号線として残されています。そこを行きますと、益田に出ます。まさに、海岸に達したというエリアです。
そして、到着した一行を歓迎する式典が催されたようです。数百人で出迎え、鼓角が鳴らされたとありますから、相当な歓迎振りだったことが伺えます。そして、10日ほどした頃に、200騎ほどの騎馬隊とともに迎えがやってきます。
これらの記述を見た瞬間、「これって、出雲?!」と閃きした。
10日という距離感や、200騎もの騎馬隊で迎えに来るということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だというところに到達しました。この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達したのです。
これで、ようやく邪馬臺国の実像が見えてきました。つまり、邪馬臺国は騎馬民族たる出雲の勢力だったということが、ここで理解できました。
既至彼都、其王與清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人
來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
いよいよ、大倭王のいる都、つまり邪馬臺国に到着しました。その王との会見が記されています。
王の言葉が、初めて中国の史書に登場しました。その王は、大いに悦んで述べたとあります。
『我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く、故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい』
かなり丁重に話しているようです。やはり、あの国書で隋の皇帝が怒っているというのが伝わっていたのでしょう。礼儀に欠けていたと謝っているような口ぶりです。しかし、隋の倭国に対する対応は、訓令とか朝命といった属国扱いです。ですから、逆に、『大隋は、礼儀の国』だと聞いているということは、大隋なら大隋らしく礼儀を知れと言っているようにも取れます。
そして、『大国維新の化』を聞きたいと言っています。つまり、大国を維新、つまり大きく刷新させるにはどうしたらよいかということでしょうか。隋のことは大隋としていますから、『大国維新の化』とは、出雲王朝たる『大国』を維新、大きく変革しようと考えていたことが伺えます。
その問いに対し、使者清は、倭王に皇帝の徳について述べた後、館に就きます。そして、人を遣わして『朝命はすでに伝達したので、すぐに道を戒めよ』と伝えています。かなり怒っているような様子とも言えます。あるいは、最後通告的な言葉にも聞こえます。それでも、丁重におもてなしをして帰国する清に使者をつけてお送りし、貢物も届けているようです。
しかし、最後は、『此後遂絶』で終わっています。この後、国交断絶に至ってしまいました。
以上見てきましたように、この隋書には、とても貴重な資料が残されていました。わが国の歴史的資料では、まったく見ることのできない邪馬臺国の実像に迫る事が出来ました。