はじめに、
世界7不思議の一つとして、謎多きエジプトのピラミッドですが、「何のために、どのように建造されたのか」など古くより検証されてきていますが、今なお結論は出ていません。
紀元前5世紀頃のギリシャの歴史家であるヘロドトスの『歴史』に記述されて以来、王の墓ではないかという説が主流となってきました。しかし、ピラミッドの調査が進められる中で、それに疑問も生じています。
私、西山恒之は、かねてよりピラミッドについても検証してきましたが、先日2024年9月25日に閃いたといいますか、一つの結論に至りましたので、ここに公開することに致しました。決して、すべての謎が解けたということではありませんが、ピラミッドの謎の検証に一石を投じることができれば幸いです。
Ⅰ、ピラミッドの場所と歴史的背景
エジプトのナイル川
ピラミッドは、エジプトのナイル川沿いに位置しています。「エジプトはナイルの賜物」とも言われるように、エジプト人にとって、ナイル川は農耕が成り立つ生命線でもありました。
7月半ば頃から11月半ば頃にかけてナイル川は増水し、その氾濫により上流から水と肥沃な土砂がもたらされます。そして水の引いた11月半ば頃から3月半ば頃にかけて農耕作業が行われます。そして、3月半ば頃から7月半ば頃になるとナイル川の水位は最も低くなり、土地は干上がります。この頃には収穫を終わらせ、再びナイル川の増水を待ちます。
こういったナイル川とともにエジプトの人々の生活が、数千年あるいは数万年と営まれてきていたのです。
そのエジプト人にとっての新年は、7月半ばのナイル川増水に始まります。そして、7月半ばに夜明けの地平線に昇るシリウス星が、新年の訪れを知らせていました。彼らにとって、天空の星の動きも、季節の移り変わりも一体のものとしてとらえられていました。
Ⅱ、王朝の誕生とピラミッドの建設
この肥沃なナイル川流域に大きな繁栄を築いたエジプト人の社会に王朝が生まれたのは、紀元前3000年頃と言われています。
そして、ピラミッドが建設されたのは、第3王朝から第13王朝の約1000年間の出来事でした。第3王朝の2代目ジョセル王からピラミッドが造られるようになります。ジョセル王は、古都メンフィスの西側に階段ピラミッドを建設しています。その周辺には付属の建築物であるいくつかの神殿があり、その周囲は南北550メートル東西240メートルの長方形の壁で囲われていました。つまり、神殿施設の中央に100メートル超四方、高さ60メートルのピラミッドが位置していました。
その後、第4王朝時代、スネフェルの息子クフは、紀元前2551年に王位につきます。統治期間はおよそ50年ほどと言われています。ジョセル王のピラミッド完成後、60年ほどでクフ王のピラミッド建設に着工しています。そして、続いてクフの息子カフラーによって第2のピラミッドが、クフの孫メンカウラーによって第3のピラミッドが建造されました。これらのピラミッドが、3大ピラミッドと呼ばれています。
この3大ピラミッドをはじめ多くのピラミッドが、古王国時代(前2686~前2181)に建設されました。後の中王国時代(前2040~前1640)にも断続的につくられ、現在まで残されているピラミッドは、およそ90基となります。そのほとんどが、ナイル川の西側、砂漠との境界エリアに位置しています。つまり、古代の都メンフィスに近い地域に集中しています。これらのピラミッド建設は、長いエジプトの歴史にあっては、ほんの一時代、1000年ほどに集中した建造物でした。
階段ピラミッド
Ⅲ、クフ王の大ピラミッド
では、それらのピラミッドの中で最大のピラミッドであるクフ王のピラミッドについて検証してみましょう。クフ王のピラミッドは、カイロから南西に13キロ、ギザの丘、リビア砂漠の入り口、ナイル川の西側にあります。その南西に第2のカフラー王のピラミッドがあり、それぞれの北東から南西に伸びる対角線は同一線上に重なります。その南に第3のメンカウラー王のピラミッドがあり、さらにこれら3大ピラミッドに付属して小ピラミッドが8基あります。
ギザの3大ピラミッドと小ピラミッド
アフリカの北西部や中東アジアから到来する者は、まずこのピラミッド群を目にすることになります。そして、その最北端に聳えているのが、エジプト最大のクフ王のピラミッドです。創建時は、基底部が230.36メートル四方、高さが146.63メートルありました。今は、最上部が失われており、その高さは137.28メートルです。
この大ピラミッドには、下から、地下の間、王妃の間、王の間と3つの部屋があります。
王の間からは、南北の壁面から外部に突き抜ける20センチ四方の穴が開けられています。北面の穴は、水平に対し31度の角度で、南面の穴は45度の角度です。この穴は通気口と呼ばれていますが、北側の穴は周極星を、南側の穴はオリオン座の方角を向いています。
そして、入り口は石で塞がれていましたが、9世紀後半にアル=マムーンが盗掘して潜入したものの、ピラミッドの中からは、財宝もミイラも見つかりませんでした。また、他のピラミッドも同様で、王家の谷に葬られた墓からは、ミイラや財宝、あるいはその死者を祀る壁画が残されていましたが、ピラミッドにはそういった壁画すら残されてはいませんでした。エジプトで最大規模のピラミッドが、仮に王の墓であったのなら最大規模の壁画が残されていても不思議ではありません。他の多くのピラミッドにもそういった埋葬時に施される壁画や財宝、副葬品といった物がないというのは、本当にピラミッドが王の墓だったのかという疑問が生じる大きな要因となっています。
Ⅳ、ピラミッドは、墓ではなく、城だった!
クフ王の大ピラミッドの王の間、あるいは王妃の間と呼ばれている部屋は、ピラミッドのほぼ中心に位置しています。そして、そこには簡単に到達できないような仕組みとなっています。
まず、死者は地下に埋葬されます。王家の谷にある墓が基本的な埋葬形態です。ところが、クフ王のピラミッドの王の間、王妃の間は、地上に位置しています。さらに外部にむけて通気口があります。死者を葬る墓に通気口は必要ありません。また、基本、盗掘されないように目立たないように堅固に地下に埋葬されます。
このように、ピラミッドは、本来の死者の埋葬方法とは全く異なる建築物となっています。仮にピラミッドに王を埋葬するのであれば、地下に埋葬し、その上に石を積み上げれば良いことで、何も中に迷路のようにして部屋を作る必要も通気口も必要ありません。
ことごとく墓であることが否定される様式となっています。
では、墓でなければ何のために、このような巨大なピラミッドを建設したのでしょう。
それは、エジプトの地勢や王の権威の増大など、当時のエジプトの置かれていた社会状況により、その建設に向かったと考えます。
まず、エジプトの地形により、当時の王朝は、ナイル川流域や河口エリアに拠点を構えていました。つまり、砂漠など比較的平坦で、山や谷といった王の安全を確保できる場所がないということです。他民族からの攻撃や反乱といった非常時には、たとえ防衛体制を築いても、きわめて無防備で、権力を強めていった王であれば、なおさらその恐怖心は強くなったと考えられます。
ですから、王の緊急時の避難場所、それが建設の最大の動機になったと考えます。どんなに攻められようと決して危害の及ばない安全な要塞、これが建設の目的であり、内部構造はその目的に沿ったものとなっています。まずは、頑強な石で囲まれており、内部に侵入することもかなり困難です。また、外部にあっては、ピラミッドの斜面に登れば、敵の兵が攻めてきても下からの攻撃は極めて不利です。逆に上からの攻撃は、投石や弓矢など重力加速度も加わり、平地よりも攻撃力は増大します。わが国でも、戦国時代、山の上に拠点を構えたり、お城を建設し天守閣を築いたのと似たような所があります。
また、他民族からの攻撃時も、巨大なピラミッドを前にすると戦意を喪失させる効果は絶大です。高所から遠くを見渡すことができるので、見張り台といった役割もあったかもしれません。自国民にとっては反乱を抑え、他国からの脅威に対抗できるという安心感を持たせることもできます。
ですから、王の為というより、民族全体の安全の確保という思いで建設したのかもしれません。
長期の籠城といったことになれば、通気口も必要ですし、日にちや季節の把握もしなければなりませんから、周極星の状態など天体観測も必要になります。あるいは、平常時でも、天文台のように活用していたのかもしれません。
先にも触れましたが、第3王朝のジョセル王が、古都メンフィスの西側に階段ピラミッドや付属の建築物も含めた神殿を建設しています。そこからクフは大きなヒントを得たのだと考えます。神殿施設の一部であったピラミッドを、巨大な要塞、お城に進化させたのでしょう。
夏至の頃には、スフィンクスの背後で、クフとカフラーの2大ピラミッドの間に太陽が沈みます。太陽や星座などの天体の動きや、夏至や冬至、春分や秋分に合わせたり、東西南北に正確に合わせて建設したのも天体観測や暦、日時計など多くの活用方法がピラミッドにはあったと思われます。
平時には王の権威の象徴であったり、天文台であったり、緊急時には王の安全を確保するためのシェルターであったり、他民族への圧力であったりなどなど、王朝の存続のためには欠かすことのできない重要な施設だったのでしょう。
ですから、ピラミッドは、死者を葬る墓ではなく、王が生き残るための施設だったというのが、この間に検証した結論であります。
我が国のお城と共通するところがあり、我が国のお城も戦国時代の一時期に数多く建設されていますが、それ以外の時期には建設されていません。そういった時代の流れの中での事象だったのでしょう。
参考資料
河江肖剰氏の動画(youtube)
ピラミッドはなぜつくられたか 高津道昭氏 新潮選書
図説 大ピラミッドのすべて 創元社