中国の史書検証 Ⅰ

 我が国に残されている歴史的文献から本当の歴史を知るのは、非常に困難です。
 ですから、中国に残されている史書から、古代におけるこの列島の貴重な歴史を知ることができます。
 前漢の頃に司馬遷が記した史記に始まり、清の時代の明史に至るまでの24史が、正史とされています。中国では、次に成立した王朝が、前王朝の歴史を記して、歴代の史書が残されてきました。
 その24史の中で、主には、以下の12史と資治通鑑に倭国や日本国について記されています。

 漢書、三國志、後漢書、宋書、南齊書、梁書、晉書、隋書、北史、南史、旧唐書、資治通鑑、新唐書

 これらの史書は、ある傾向によって3種類に分類することができます。
 まず第1類は、そこに書いてある通りに読めば良いという史書群です。
 漢書、魏志倭人伝、後漢書、宋書、南齊書、隋書、旧唐書、資治通鑑などです。
 これらの史書には、特に歴史を改ざんしようといった意図はなく、その通りに読めばいいだけです。

 第2類は、唐王朝の時代に、この列島を占領征服しようという思惑を持って、意図的に歴史を改ざんしている史書です。
 梁書、晉書、北史、南史などです。
 これらの史書は、唐王朝の時代、大陸からの視点で、この列島の歴史が改ざんされています。大陸にいる唐王朝勢力からの視点で以て改ざんされている史書です。漢書、魏志倭人伝、後漢書、宋書、南齊書、隋書などの第1類の史書を改ざんしたものが第2類の史書です。我が国の歴史の混迷は、ここに根源があります。
 
 第3類は、大陸からではなく、この列島からの視点で改ざんされたものです。
 それが、新唐書です。
 唐王朝は、907年、朱全忠等によって滅ぼされ、大陸を追われてこの列島に逃避してきます。この唐王朝の残党勢力の視点で改ざんされています。旧唐書を改ざんしたものが、新唐書とも言えますが、これまでの我が国に関わる歴史が、ことごとく作り替えられ、ほとんど原形を留めないほどに改ざんされています。
 この列島が、唐王朝に占領征服され、今に至るまで唐王朝の残党勢力によって支配されているので、この新唐書の改ざんされた偽りの歴史認識が、今の我が国の歴史認識となっています。この偽りの歴史認識を正さなければ、この列島の本当の歴史を認識することはできません。

 では、それぞれの史書を検証していきましょう。

<山海経>
 正史24史にはありませんが、中国最古の地理書とも言われている山海経には、中国東北部にいた「山戎」という遊牧民族が、紀元前663年、南下して燕との抗争になり、その戦いに敗れたとあります。そして、彼らは、燕の支配下に置かれたり、この列島にも逃避してきました。
 「倭属燕」という記述が残されており、その後も燕との関係があったことが伺えます。
 朝鮮半島の東側から船出すると、海流の流れに乗って山陰エリアに到達します。
 高度な文明を築いていた山戎の渡来は、この列島の人々に大きな福をもたらしました。その感謝の思いから、全国におよそ7千社のエビス系神社で今も称えられ、えびす講といった行事も残されています。
 全国のエビス系神社から毎年美保神社に集まり祭りが催されています。その地は、彼らの祖先が上陸した地点であり、彼らにとっての聖地でもあります。それゆえ、その地は、山戎の都で山都、つまり『やまと』とは、山戎の都を意味する地名で、この列島の古代の都『やまと』は、今の島根半島周辺に存在していました。この列島における「山戎」の歴史的拠点で都でもあるという意味でその地が『やまと』と呼ばれるようになった、これが『やまと』の語源であると考えています。
 

<漢書>
樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
楽浪の海中に倭人あり。分かれて百餘国をなし、歳時をもって来たり獻見すと云う。
 漢書は、紀元1世紀後半に、後漢の班固が記したとされています。
 この列島には百余国があって、時々朝貢していたとあり、この表現は、後の史書の基本にもなっています。
 ただ、この『倭人』という表現は、大陸の王朝から見たこの列島の人々を蔑視した表現で、南方には、小さい人間が住んでいるといった意味を持っています。
 大陸に王朝が誕生した時から、その王朝によってこの列島は卑下されていたのです。
 基本的に、王朝とは、人を見下し差別する体制だからでもあります。
 

<三国志魏書>
『三国志』魏書、烏丸鮮卑東夷伝に登場する倭人伝で、所謂、『魏志倭人伝』と言われているものです。3世紀末、西晋の時代に陳寿が記したとされています。

始度一海、千餘里至對馬國。
始めて海を渡る、千余里で対馬国に至る。
 朝鮮半島から始めて一海渡ると、対馬国に至るとあります。そして、その距離を千余里としています。
 対馬の対岸には、釜山がありますが、その間の距離はおよそ50kmです。そうしますと、当時の1里は、およそ50mだったということになります。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
また、南に一海渡る、千余里。その名は瀚海(かんかい)といい、『一大国』に至る。
 対馬国からまた海を渡ること千余里とありますから、そこからおよそ50kmに『一大国』があるとしています。それは、今でいう『壱岐島』に至りますが、その距離は、同様に記載されているとおり、およそ50kmです。
 
又渡一海、千餘里至末盧國
また、一海渡る、千余里、末盧國。
 『一大国』からまた海を渡ること千余里とありますから、そこからおよそ50kmに『末盧國』があるとしています。
 さて、ここで問題となるのは、方角が示されていないということです。それによって、道順や方角に諸説出てくることになってしまいました。したがって、『末盧國』に至る唯一の手がかりは、『壱岐島』から50kmの位置にあるということです。そうなりますと、当然北九州の沿岸ということになります。
 調べてみますと、南の『平戸』や『松浦』は、およそ40km。
 南南東の『唐津』は、およそ35km。
 南東の『博多』は、およそ50km。
 その距離からしますと、『博多』が最も合致していることになります。博多湾には、金印が発見された志賀島もありますから、その地が大陸との交流の要所だったということでは、整合性が一番高いと考えられます。
 つまり、当時の、大陸とこの列島とを結ぶ表玄関だったということになります。

東南 陸行五百里、到伊都國
東南へ五百里、陸を行くと、伊都国に到る。
 『末盧國』から、陸を東南に五百里行くとあります。『末盧國』は、博多だとしましたが、そこから東南には平地が開けています。
 そして、五百里、およそ25km行きますと、そこに『伊都国』があったとしています。それまでの国には『至る』とありましたが、ここ『伊都国』では『到る』とあります。今までの国は通過点でしたが、『伊都国』は、目的地、到着地点だとしています。
 では、それがどの辺りになるのでしょう。博多から大野城や大宰府を通り、25km行きますと、『甘木』がそれに相当します。現朝倉市甘木、この地に『伊都国』があったと考えられます。
 地理的には、博多から日田を通り大分へ抜ける街道、小倉から久留米を通り大牟田へ抜ける街道、そして吉野ヶ里や唐津・松浦・平戸方面へ向かう街道、これらの主要な街道が甘木で交差しています。
 つまり、この甘木を中心にして、九州各地へ道が通じていたことになります。甘木の地は、その要所だったということになります。
 ですから、その地に到るのに、現松浦や唐津に上陸して博多を経由して甘木に到ったといった説もありますが、そんな遠回りをする必要は全くありません。当時の要所となる港だった博多に上陸して、甘木の地にあった『伊都国』に直行するのが、最短で一番行き易い道のりとなります。現甘木の地に到るのに、何もわざわざ遠回りをする必要はありません。

郡使往來常所駐
郡の使者が往来して、常に駐在する所である。
 その『伊都国』には、帯方郡からの使者が往来していて、いつも駐在しているとあります。つまり、今で言うところの『大使館』だったのです。
 ですから、この魏志倭人伝に記されている道順は、甘木にあったこの大使館たる『伊都国』へ到るためのものだったと言えます。
 また、『末盧國』を現松浦とする説も見受けられますが、そこから東南に向かおうとしても、そこは山が連なっていて行くこともできません。また、五百里、およそ25km行ってもそれらしい拠点となる場所もありません。他の地も、それと同様です。
 したがって、そこに記述されているところに従って行き着くのは、現朝倉市甘木ということになります。

東南至奴國百里
東南に至る、奴国、百里。
 『伊都国』に常駐する使者が、周辺諸国の紹介をしています。
 まず、近いところから、『奴国』が東南に百里、およそ5kmの位置にあったとしています。博多から甘木に通じる道は、そのまま東南の方向に伸びています。そして、その道を甘木から、およそ5km行きますと、そこは『旧朝倉町』です。
 その地に『奴国』があったと考えられます。

東行至不彌國百里
東至る、不彌國、百里。
 次に『伊都国』から東に百里、およそ5kmの位置に『不彌國』があったとしています。
 甘木から東に5kmとしますと、佐田川沿い『三奈木』のあたりに『不彌國』があったと考えられます。

南至投馬國水行二十日
南至る、投馬國、水行二十日。
 次に『伊都国』から南に水行、つまり海を二十日行くと『投馬国』があるとしています。つまり、陸を経ては行けないということです。 甘木にあった『伊都国』から、先ほどの港である『末盧國』、つまり博多から船に乗り、長崎と五島列島の間を通り、南に二十日間かかって行けるような島だということになります。
 それは、九州ではありません。そのまま南に下ると、そこは、『奄美大島』があり『沖縄』へと連なります。
 この『投馬国』の地が、いろいろと解釈されていますが、九州や本州だと陸地を経て行けます。しかし、そのように陸を経て行くことができず、『水行』ということのみ記されているということは、海を経て行くしか方法がないということを意味します。
 また、その方角が『南』だとしています。本州の方角だと、『東』になります。
 よって、それらを総合しますと、『投馬国』は『沖縄』だと考えられます。
 数ある諸説には、魏志倭人伝にある方角や距離は、『間違っている』とか、『勘違い』だとか、中には『どんぶり勘定』だといったことも述べられています。しかし、よくよく検証しますと、当時の測量技術を最大限に駆使して、その方角や距離が記されていると言えます。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南至る、邪馬壹國、女王の都する所、水行十日、陸行1ヶ月。
 次に『伊都国』から南の方角に水行十日、または陸を1ヶ月行くと『邪馬壹國』があるとしています。
 『投馬国』は陸を経ては行けませんでしたが、女王の都する『邪馬壹國』には陸を経ても行けるとあります。同様に、甘木にあった『伊都国』から、南に船で行くと十日間、陸を歩いて行くと1ヶ月だとしています。そうなりますと、九州の範囲内だということになります。 これらに沿って考えますと、『伊都国』、つまり甘木より北ということはあり得ません。南九州だということになってきます。
 その範囲内でということになりますと、そうそう候補地がいくつもある訳ではありません。
 女王国があった地ですから、それ相応の歴史的拠点としての痕跡が残っていることになります。
 その検証の末、到達したのは、西都原です。西都原台地には、巨大古墳群があり、その地に歴史的拠点があったことを物語っています。宮崎市の北西にある西都市、ここに魏志倭人伝に登場する女王国であるところの『邪馬壹國』があったと考えられます。
 よく言われるところの『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズですが、ここでは、『邪馬台国』ではなく、『邪馬壹國』と記されています。
 魏志倭人伝のどこにも『邪馬台国』という文字もなければ、『邪馬台国の女王卑弥呼』を意味するような記述も登場しません。つまり、『邪馬壹國』の『壹』とは、『壱』、すなわち数字の『一』を意味する文字であって、『台』と解釈できる根拠はどこにもありません。
 ですから、『書き間違い』だとか、『写し間違い』、『勘違い』だと見なされています。先ほどの距離や方角のところにもありましたが、間違っていたり、勘違いをしているのは、その解釈をしている方だと言わざるを得ません。
 女王国は、西都原にあって、『邪馬壹國』と呼ばれていました。これが、魏志倭人伝の伝えているところです。
 では、その女王国、『邪馬壹國』について検証してみましょう。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、 次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有 鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王 境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。

女王国より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。次 に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。次に好古都国あり。次に不呼 国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。 次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国 あり。次に奴国あり。これ女王に境界の尽くる所なり。
その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あ り。女王に属せず。郡より女王国に至ること万二千余里。
 女王国より北は分かるが、それ以外の国は、遠いのでその詳細は分からないとしています。その国名を見ると、伯耆国といった国名もあるので、本州にある国々が記されているようです。伊都国にいる使者が、こういった国があると聞いたのでしょう。
 それらの国の南に『狗奴国』があり、女王国には属していないとあります。この『狗奴国』は、紀伊半島にあり、『狗奴』は『熊野』に通じているとも考えられます。
 そして、帯方郡から、女王国までの距離を1万2千里だとしています。つまり、ソウル周辺からおよそ600kmに女王国はあったということになります。
 当時の、測量の誤差、あるいは1里を50mとした誤差を考えても、帯方郡からの距離は、700kmくらいまでだと考えられます。それで検証しますと、まさしく西都原の地は、それに相当します。 

男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾

 男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称している。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜(サメ)の害を避けたと言うが、今 倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が魚・水禽を寄せ付けないまじないとなっていたが、今では 飾りとなってしまっている。
 魏志倭人伝には、風俗も多く紹介されています。
 その中に、海に潜って魚や蛤を採る時に、サメの被害から身を守るために入れ墨をしているとあります。これは、南方の民族の風習を紹介しているようです。
 これ以外にも、葬祭、占い、飲酒、など衣食住に関わることを伝えています。

國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中 有如刺史。
王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

國國に市あり。有無を交易し、大倭の使いがこれを監督する。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を 檢察する。諸國これを畏憚す。常に伊都國にて治める。國中において刺史の 如きあり。
王、使を遣わして京都、帯方郡、 諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
 国々に は市が立っていて、色々な物を交易しており、大倭がこれを監督していたとあります。
 また、女王國より北では、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させており、諸国では、これを畏れていたともあります。
 ここから、大倭が、強力な権力を持っていたことが伺えます。
 また、王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時や、又、帯方郡の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて女王の所へ届けさせているが、間違いはないともあります。
 『女王国』以外にも、『大倭』という強力な権力があることや、『王』と『女王』と記していることから、この列島には、大きくは、二つの勢力があったことが分かります。
 また、時々、この列島には文字がなく、7世紀頃になって文字が導入されたと言われることがありますが、ここにもあるように、文字で以って大陸との交流がなされており、この列島では文字が普通に使われていたことも分かります。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、 無夫壻、有男弟佐治國。

その国は元々男性の王がいたが、7~80年の間に倭国は乱れ、歴年争いを繰り返していた。そこで一女子を王として共立した。名づけて卑弥呼という。鬼道にたけており、大衆を幻惑している。能く衆を惑わす。齢はとっているが、夫はおらず弟がいて国を治めている。
 その国では、元々男王がいたが、7・80年して、争いが続き一女子を王として共立しています。その名を卑弥呼といい、夫は無く弟が国を補佐して治めているとあります。
 しかし、他の部分も含めてよく見ますと、確かに女王とか女王国といった表現は出てきますが、『邪馬台国』の女王卑弥呼という表現は何処にもありません。
 つまり、卑弥呼は、邪馬壹国の女王ではありましたが、『邪馬台国』の女王ではなかったことになります。
 
 
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり。
 この魏書に卑弥呼は、登場するのですが、邪馬台国の女王という認識はどこにも示されていません。それどころか、その女王国よりも強力な『大倭』や、『女王』以外に『王』という表現も登場しています。
 卑弥呼の女王国から東へ海を渡って千余里行くとまた国があるが、それも倭種だと述べています。つまり、その女王国の所在地についても述べられていて、卑弥呼は九州にいたと、ここには明記されているのです。
 
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰: 「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹 二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。

 景初二年(238年)六月に、倭の女王は大夫難升米等を派遣し、郡に天子に詣うでて朝献したいと要請した。太守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。その年の12月、倭の女王に送った詔書曰く、「親魏倭王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし汝の大夫難升米・ 次使都市牛利を送らせ、汝の献上した男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉って到着した。汝がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは汝の忠孝の表れであり、我は甚だ汝を哀れむ。今 汝を親魏倭王とし、金印紫綬を授け、封印した後、帯方郡の大守に授けさせる。
 卑弥呼が、景初2年に魏へ使者を派遣します。6月に帯方郡へ行き、郡の使いとともに魏の明帝に朝貢しています。それに対し、明帝は、12月に、詔書と金印をはじめ多くの品々を授けています。その詔書で、皇帝は、卑弥呼に対し、遠いところをよく使者を送ってきたと、また汝の忠孝の表れだと甚だ哀れんでいます。
 そして、金印紫綬を授け、装封して帯方郡の太守に授けるとあります。

又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」

 特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十 匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、 悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
 また卑弥呼には、数多くの品々を授けたので、使者が帰ってきたら、目録と照らし合わせ、それらを国中の人に示し て、魏が卑弥呼に好意を持っていると知らしめなさい。だから、魏は鄭重に好物を授けるのである」と、詔書で述べています。

正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

正始元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛、錦、毛織物、刀、鏡、采物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。
その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。
 卑弥呼が景初2年(238年)に使者を送ったその2年後、正始元年に、魏は、倭王に使者を派遣し詔書や印綬等を届けています。この部分は、わが国の古代史にあってはあまり話題になっていないようですが、極めて貴重なことが述べられています。あるいは、ここの部分をどう認識するかが、わが国の古代史を理解する上で、その試金石になるとも言えます。
 つまり、倭王と倭女王という2つの勢力が存在していたことが、認識できるかどうかということです。
 ここでは、魏の使者が、わざわざ倭王の所まで出向いています。そして、倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しているのです。『詣』とは、『臺』、つまり皇帝の居する都を訪れる時に使う表現でもあります。さらに、詔書や印綬を『奉』じるとしています。
 卑弥呼に対しては、『汝』、『哀』など、見下ろす表現をしています。あくまで、魏が下賜するという視点となっています。
 ところが、倭王に対しては、『詣』、『奉』、『拝』と仰ぎ見る視点となっています。まず、倭王と倭女王が居た、そして魏は、倭王に対して敬意を持っていたということです。ここに登場する倭王が、この列島を支配する大倭王だからこそ、魏はわざわざ使者を送っているのです。
 ところが、この倭王が卑弥呼だとみなされています。魏の皇帝が、卑弥呼を『親魏倭王』と詔書の中で述べていることもあり、混乱しているのか、あるいは倭王の存在を消そうとしているのかのどちらかです。
 そうなりますと、景初2年に卑弥呼の使者が魏へ行き、詔書・印綬他、多くの品々を授かっているのですが、魏は、その2年後にまた詔書・印綬等を、再び授けたことになります。そんな2重に授けることなど、するはずもありません。
 ところが、なんと、2重に授けるということを何とか避けようということで、景初2年に行った卑弥呼の使者は、手ぶらで帰国したことにしてしまいました。そして、正始元年に、その目録にあるような品々が届けられたのだそうです。6月に訪問し、半年待たされたあげくに、また後で届けるから、とりあえず帰ってくれなどありえません。
 そもそも、景初2年の詔書にある、目録の品々と正始元年の品々は、全く異なります。倭王と倭女王のそれぞれに、魏は授ける行為をした、これが魏書に記されていることです。
 半年間、待たされたというのは、その詔書にも銅鏡が100枚渡されたとあるように、その作成のために時間がかかったということなのでしょう。その詔書にも、使者が帰国したら、その目録と品々をよく照らし合わせるようにとあったように、その使者は、それらの品々を持ち帰っています。
 また、正始元年の使者が、倭王に銅鏡を届けていますが、それが、出雲の地で発見されています。『景初3年』の銘文の入った銅鏡が、出雲で発掘されたということは、この正始元年の倭王は、出雲の地にいた王だったということを意味しています。
 さらにあり得ないことに、我が国の歴史研究者は、卑弥呼の使者が、景初2年ではなく、景初3年に行ったことにしてしまいました。あくまでも、倭王の存在を認めようとせず、出雲で発掘された銅鏡は、卑弥呼から渡ったものだというのです。ここまできますと、歴史の改竄としか思えません。歴史を自らの都合に合わせるように捻じ曲げてしまいました。余りにも酷い改竄です。
 そもそも、卑弥呼の使者が、景初3年に行ったなどあり得るはずもありません。その卑弥呼の使者は、明帝と会見しているのですが、その明帝は景初3年の正月に亡くなっているのです。彼らは、亡霊と会談したとでも言うのでしょうか。皇帝が亡くなると、その年は喪に服して、公式行事も行われません。そういった事情は、帯方郡で分かりますし、帯方郡の使者が、本国まで随行しているのですが、その魏の使者は皇帝の死を知らないはずはありません。6月ですから、いくら遠いと言っても、そんな国家的一大事の情報が届いていないことなどあり得ません。つまり、その時点で、卑弥呼の使者は、皇帝への面会はできないと知ることになります。
 ですから、景初3年に行ったなど、全くの荒唐無稽の作りごとでしかありません。
 さらに、卑弥呼の使者が、帰国する時に明帝から詔書を授かっています。その詔書は、ではいったい誰が書いたというのでしょう。卑弥呼の使者が来る前にあらかじめ書いていたとでも言うのでしょうか。卑弥呼の使者が、何を献上したかまで書いてあるのですから、そんなことまで予知できるはずもありません。
 また、景初2年に遼東半島あたりで公孫氏をめぐる抗争が起きていたので、行けていないといったことも言われることがあります。しかし、その使者たちは、遼東半島など通りませんから、別に支障はありません。
 むしろ、何らかの危険があってはいけないと、帯方郡の使者が随行しています。
 驚いたことに、歴史研究者によって、全くつじつまが合っていないにも関わらず、そのような歴史の偽造がまかり通っています。とんでもない歴史の改竄が行われています。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。

卑弥呼以て死す。大きな冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。
 卑弥呼が亡くなり、大きな塚、つまりは墓が造られたとあります。先に、女王国は、宮崎県の西都原に存在したと述べました。では、その西都原には、それに相当する古墳があるのでしょうか。
 西都原台地には、巨大古墳群があったことにも触れました。
 そこは、300基以上もの古墳のある全国有数の大古墳群です。そのうち、9割が円墳で、その中には、わが国最大の円墳があります。その円墳には、わずかに方墳部分がついているので帆立貝式古墳とも呼ばれていて、円墳部分の直径は、132メートルもあります。
 まさに、この列島の女王に相応しい墓です。しかし、現地では、そういった認識はなく、男狭穂塚(おさほづか)古墳と呼ばれています。この男狭穂塚古墳こそが、卑弥呼の墓に相当します。
 ただ、ここで、最初に疑問となったのは、女王に相応しいとは言え、直径が百余歩とありますから、そうなりますと、1歩が1メートル以上になってしまいます。いくら大股だったとしても、1メートル以上は少々無理があります。そこで、調べてみますと、魏国の度量基準では、基準となる足を左右どちらかに決め、その足の歩数で計測していたことが分かりました。
 つまり、今でいう2歩が、この魏書における1歩ということになります。大人の1歩がおよそ60㎝あまりといったところですから、当時の1歩が120数cmです。まさしく、その男狭穂塚古墳は、百余歩で、ぴったりと合います。
 卑弥呼が居たのは、南九州でしかあり得ません。そのエリアの中で、大きな拠点があり、この記述に合う古墳は他には見当たりません。この男狭穂塚古墳こそが、卑弥呼の墓であり、同時に、西都原こそが女王国『邪馬壹国』のあった地ということになります。
 しかし、それは、決して『邪馬台国』ではありません。

 政等以檄告喩壹與、 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚異文雜 錦二十匹。

政等、檄を以て壹與を告喩す。 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す
 卑弥呼が亡くなったので、男王を立てたが、抗争が起き、壹與を女王としたら治まったと、ありました。
 その壹與は、魏の使者が還るにあたり、使者20人を同行させています。その使者は、魏国で、『臺』に詣でて貢物を献上したとあります。これで、所謂魏志倭人伝は終わりです。
 この最後の部分に『邪馬台国』を理解する上での重要な記述があります。つまり、次の女王となったのは、壹與とあります。そして、その壹與の使者は、『臺』に詣でたとあります。
 ここなのです。当たり前ですが、『壹』と『臺』が、明確に使い分けられています。
 よくある議論の中で、中国の史書に『壹』と『臺』の書き間違いがあるとか、写し間違いがあるというようなことが言われることがあります。それは、まずあり得ないことです。
 何故なら、臺とは皇帝のいるところを意味しているのです。中央官庁、皇居、総理官邸、ホワイトハウスといったその国の最高権力者のいるところを『臺』としているのです。
 東京の文字を棟京とか、凍京などと文部科学省の研究者が書き間違えるに相当するほど、あり得ないことです。一般の人でも、そんな間違いをすることなんかありません。
 つまり、邪馬台国の『台』とは、『臺』です。邪馬台国とは、この列島の皇帝に相当する王がいる所を意味しています。
 では、卑弥呼が女王だからそこが邪馬台国ではないのか。そのように、理解されているのが一般的というか、殆どがそういう解釈ではないでしょうか。
 ところが、そうではないのです。卑弥呼は、あくまで邪馬壹国の女王であり、皇帝のいるところである邪馬台国の女王という表現は魏志倭人伝の中の何処にもありません。