中国の史書検証 Ⅲ

<南斎書>

倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓(慕韓)六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。 
 倭国は、帯方郡の東南大海中に在り、漢末の時代以来女王を立てた。風俗は、前史に見える。
 健元元年(343)に、使持節、都督倭・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍に新たに進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。
 
 南斉書は、6世紀前半に梁という国で作成されています。倭国についての記載は、短いですが今までの史書が簡潔にまとめられているとも言えます。
 また、倭王の武は、5王の中でもかなり傑出した大倭王と見なされていたようです。
 

<梁書>

倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。

 梁書は、唐の時代に書かれています。
 今までの史書は、漢書以来、冒頭に倭国の位置を記すところから始まっていました。ところが、この梁書では、まず倭人は、呉の太伯の末裔だと自ら言っているとあります。倭人が呉の末裔であるといったことは今までの史書には出てきませんでした。
 つまり、この列島には、北方騎馬民族など多くの民族がやってきていますが、そういった歴史を消し去り、中国王朝の勢力のテリトリーにあったとする、いわゆる、この列島は『単一民族』だという認識を示しています。
 今でも、時折、わが国は『単一民族』だという認識が、意識的に流されていますが、そのルーツは、この梁書にあるとも言えます。
 それは、同時に、唐王朝の考え方でもあります。

從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。

 唐代に入って、倭国に対する認識は、全く異なるものに塗り替えられています。冒頭の『呉の太伯の後』というのもそうですが、その次に描かれている魏書にあった行程についての記述も、大きく歪められています。
 魏書にあっては、『到伊都国』とあったように、いわゆる当時の『大使館』といった、帯方郡の使者が常駐する『伊都国』へ到る行程でした。その『伊都国』から、周辺諸国や女王国が紹介されていました。
 ですから、周辺諸国を紹介する部分には、『又』は記載されていませんでした。
 ところが、この梁書では、『到伊都国』とあったものが『至伊都国』とされ、『伊都国』が中間地点にされてしまいました。その『伊都国』からの紹介だった記述が、それぞれに皆『又』が記載され、それらの諸国を経て女王国へ行く道順にされてしまいました。
 さらに、魏書では、女王国の国名が『邪馬壹国』とあったのに、『邪馬臺國』となっているのです。
 その上、そこは、女王の国のはずなのですが、倭王の居する国とされています。後漢書でも、『女王国』と『邪馬臺國』とは、異なる国として描かれていました。
 どういうことなんでしょう。よく言われるように、『壹と臺』の書き間違いなのでしょうか。しかし、その次に倭王の居する所とありますから、間違いなく王のいる『臺』と認識しているようです。
 今までの史書には、女王国を『臺』とする考え方はありませんでした。女王国は、あくまで女王国でした。
 ここでは、2つのことが考えられます。
 一つは、過去の史書の不勉強による勘違い。これは、今でもよく見かけますが、魏志倭人伝の記述を詳細にわたって分析ができていない為に、おそらくこうだろうといった罪の無い誤解から生じている場合です。ですから、それらの紹介されている国々をすべて経てしまいますと、とんでもない場所へ到達することになってしまいます。
 そして、この梁書ではいわゆる『邪馬台国』への道順とされていますから、『邪馬台国はどこにあったのだろう』、『分からない』、『どこだろう』ということにしかなりません。本来、『邪馬台国』でもない『邪馬壹国』を『邪馬臺國』、つまり『邪馬台国だと見なし』、その上、全く異なる道順に描かれているのですから、永遠にたどり着けるはずもありません。
 もう一つは、明確な意思で以って『歴史の改竄』をしたということです。隋王朝や唐王朝は、鮮卑族の流れにあります。北東アジアにいた『東胡』が匈奴に滅ぼされた時、『烏丸』と『鮮卑』に別れます。そうなりますと、唐王朝は、鮮卑でもあり東胡でもあります。
 一方、出雲王朝、スサノオ尊の勢力は匈奴の流れにあります。また、後に、鮮卑も力を大きくし、匈奴を征服しています。
 ですから、隋や唐王朝と、この列島の出雲王朝との間には、根深い民族的対立があったようです。隋の煬帝は3回も高句麗遠征に出かけます。唐王朝も、執拗に高句麗征服を行っています。その高句麗の地は、いわゆる満州で、東胡の流れを汲む勢力にとっては、民族の故郷とも言えます。
 唐王朝の対応は一貫しています。この列島の歴史から、出雲王朝の歴史を消し去ろうというものです。
 梁書では、そういった視点が貫かれています。 
 唐王朝による、とんでもない、歴史の改竄です。

至魏景初三、公孫淵誅 後卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛。
賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。 興死立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大) 將軍。其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。
 
 魏書において、卑弥呼の使者が朝貢したのは、景初2年の6月のことでした。その12月に使者は様々な品々と合わせて金印や銅鏡を授かって帰国したとありました。
 ところが、ここでは、景初3年となっています。今まで検証してきたように、景初2年か3年かということは極めて大きな問題を含んでいます。今のわが国で『景初2年』に行った卑弥呼の使者を『景初3年』だと改竄するルーツは、実はここにありました。
 唐王朝による、この列島の歴史から出雲王朝を抹殺するための、歴史の改竄だったのです。
 ですから、ここでは、正始元年に魏が倭王に使者を送ったことを抹殺しています。
 同じように、卑弥呼が亡くなったことも記されていますが、魏書ではその次に女王となったのは壹與とありました。ところが、壹與が臺與と名前すら変えられています。
 『邪馬壹国』を『邪馬臺國』と、『壹與』を『臺與』と、明らかに『壹を臺に変えようとする意思』があったということになります。
 この列島では、その後、武帝を始め、倭の5王と言われる大倭王が大きな勢力を持ち、中国の王朝と対峙するほどになります。ところが、ここでは、そういった歴史を消し去り、中国の支配下にあったとする記述にしています。続けて読むと、まるで卑弥呼の女王国と倭の5王とは同じ系統の王だということになってしまいます。つまり、倭の5王や隋書に出てきた王は、卑弥呼の末裔となってしまいます。
 さらに、倭の5王の次に、卑弥呼の国の南にあった国々を紹介しています。そうなりますと、倭の5王は、卑弥呼の地に居たことになってしまいます。
 全く、大倭王のいた出雲王朝を消し去り、自らの歴史に取り込もうとする意思が伺われます。唐王朝が、そういった自らに都合よく改竄した『歴史認識』にあったということです。
 この偽りの歴史認識は、今にまで続くわが国の歴史認識として引き継がれています。
 古事記・日本書紀といった歴史の改竄も、この唐王朝の歴史認識に基づいています。
 大倭王の居た出雲王朝は、消されてしまいましたが、では、その地はどうなってしまったのでしょう。
 それも、抜かりなく、ちゃんと代わりの国が用意されていました。


文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎 糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。

 この梁書には、文身国なる国名が登場しています。
 冒頭に、倭は、帯方郡から1万2千里にあるとしています。つまり、西都原の地を認識していたことになります。そして、この文身国なる国は、その倭国の東北7千余里にあるとしています。
 では、宮崎県西都原から東北7千余里、つまり1里が50mでしたから、350kmにある場所はどこになるのでしょう。そこは、まさしく、出雲の地であります。この列島の都、『大倭』、『邪馬臺國』です。
 出雲王朝を意味するものを消し去り、そこに『文身国』なる国を創作しています。
 もはや、勘違いなどではなく、出雲王朝を歴史から抹殺しようとする唐王朝にによる国家的な歴史の改竄です。
 さて、その文身国では、全身に獣のような文、つまり、入れ墨をしているとあります。魏志倭人伝に、この列島の風俗を紹介する中で、海に潜って蛤や魚を捕獲する時に、サメなどから身を守るために、全身に入れ墨をしているとありました。そういった南方の民族の風習を、出雲の地にいる人々の風俗としています。出雲は製鉄の民族ですから、海に潜ることを主にしてはいません。ですから、全身に獣のような入れ墨などする必要性は出てきません。
 また、その額には、『三』という文字を入れているともあります。『三』は、出雲の象徴です。島根半島の東端には、全国の『えびす神社』の総本社の美保神社がありますが、そこの神紋は『三』です。
 さらに、その国の人々は豊かだが、賎しいのでお客があっても食べ物を出してもてなすといったことをしないとも述べています。あるいは、その王に至っては、金銀財宝に彩られており、家の周囲には水銀が雨ざらしになっているとしています。
 この一連の記述は、極めて恣意的な表現に満ち溢れています。獣のような入れ墨をした賎しい人間がいて、その王は放蕩三昧だとしています。つまり、散々悪者に仕立て上げようとしています。
 背景には、民族的な対立があるのかもしれませんが、それだけでもなさそうです。当時、水銀は、今の石油に相当する貴重な資源でした。唐王朝は、それに食指が伸びていたようです。
 つまり、この列島から豊富に産出されていた水銀鉱脈を手に入れようとしていたのです。それを奪うために、それを手中にしていた出雲王朝を悪者に仕立て上げたと考えられます。ある勢力や国を執拗に貶めようとするのは、そこにはそれなりの目論見があるからです。何らかのターゲットにしているからこそ、悪者に仕立て上げようとするのです。
 今もわが国では、こういった手法が横行していますが、それは、この唐王朝に由来しているとも言えます。


<晋書>

倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七 萬。男子無大小悉黥面文身。自謂太伯之後。

 晋書も唐代に記されています。
 主に、魏志にあったような風俗が書かれていますが、やはり、自ら太伯の後と言っているとあります。
 つまり、倭人は、呉の末裔だと言っています。
 ここでも、『単一民族』を、強調しています。

 

<北史>

倭國在百濟新羅東南、水陸三千里、於大海中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆稱子。夷人不知里數、但計以 日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云、去樂 浪郡境及帯方郡、並一萬二千里、在會稽東、與tan[偏人旁右澹]耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。計從帯方至倭國、 循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海、又南千餘里度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、 至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國。即[イ妥]王所都。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安 帝時又遣 朝貢、謂之[イ妥]奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立爲王。無夫有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。爲法甚嚴。魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼、始遺使朝貢、魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相 誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命、江左歴晉宋齊梁、朝聘不絶、及陳平、至開皇二十年、 [イ妥]王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。

 同じく唐代に北史と南史が作られています。北史は隋書を、南史は宋書を基本にしています。そして、一部分付け加えられたり削られているところがあります。より分かりやすく改訂されているのかと思いきや、ここでも大変な歴史の改竄が行われています。
 梁書にもありましたが、本来『邪馬壹国』だったものが、『邪馬臺國』に変えられ、さらにとんでもない場所へ行くような意味不明の道順である上記の青い字の部分が、赤い字の隋書の中に挿入されています。それは、出雲の地にあった『邪馬臺國』を卑弥呼の地に移していることであり、出雲にあったこの列島の都『やまと』・『邪馬臺国』の抹殺です。
 同様に、壹と臺の書き間違いや勘違いではないのは、『即[イ妥]王所都』と臺の意味するところをわざわざ書いているということでも明確です。つまり、そこには、女王国であるところの『邪馬壹国』をこの列島の大倭王がいた『邪馬臺國』にすり替えようという意思がはっきりと表れています。ですから、そのまま読めば、女王国が『邪馬臺國』だったということになるのです。
 その次に挿入されている青い字の部分も同じ考え方によるものです。
 魏が正始元年に倭王へ使者を送ったことを消し去り、隋書に登場していた倭王も、卑弥呼の系列の王という表現にしています。
 すべて、出雲の地やそこにいた王の存在を徹底して抹殺しています。
 この列島には、倭王と倭女王という2つの勢力があったことを、倭女王のみが存在していたという歴史に改竄しています。
 そして、梁書と同様に、次の女王も壹與だったのに臺與とされてしまいました。
 さらに、そのすぐあとの文章に[イ妥]王、つまり倭王を持ってくることにより[イ妥]王・倭王は、卑弥呼の末裔にされています。
 極めて卑劣な歴史改竄工作です。唐王朝による、人類史上まれに見る改竄の歴史です。
 また、梁書にもありましたが、北史においても卑弥呼が魏に使者を送ったのが景初3年とされています。このことが、今のわが国の古代史をめぐる認識にも大きな混乱をもたらしているのです。出雲から景初3年の銘文が刻まれた銅鏡が発掘され、その銅鏡が卑弥呼から渡ったものだとされているのです。
 ところが、魏書にあるように卑弥呼の使者が景初2年に行っており、翌年に作成される景初3年の銘文の入った銅鏡が卑弥呼に手渡されることはあり得ません。
 そうなりますと、出雲の地で発掘された景初3年の銘文の入った銅鏡こそが、正始元年(景初3年の翌年)に、この列島の大倭王に届けられた銅鏡だということになるのです。
 この北史でも、先の梁書においても、正始元年に魏が倭王に使者を送ったことを抹殺しています。唐代には、この列島に関わる記述が改竄されているように、この卑弥呼の使者が送られた時期も同様に改竄されてしまいました。ですから、今も卑弥呼の使者が魏へ送られたのは、景初3年だとする認識が根強く残っているのです。
 このように、今のわが国の歴史認識は、この唐王朝によって改竄された歴史認識が徹底されています。それは、今のわが国の中枢には、そういった改竄された歴史認識にある勢力が中心を占めているということでもあります。
 すべては、この列島の歴史から出雲王朝による支配を抹殺するためです。
 このような、改竄された偽りの歴史認識は改められなければなりません。

大業三年,其王多利思比孤遣朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」國書曰:「日出處天子致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,上遣文林郎裴世清使倭國,度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國。又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小德何輩臺從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多?從二百餘騎,郊勞。既至彼都,其王與世清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人 來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

 隋書に書き加えられているだけではありません。ある一部分が、切り取られてもいます。
 それは、隋の使者清と[イ妥]王・倭王との会見部分です。上記の黒字の部分が隋書にはあるのに、この北史では削り取られているのです。
 ここは、言ってみれば、隋書の一番の見せ所といった部分にあたります。他の歴史書にも、わが国のどんな資料にも、この列島の王の言葉など残されていません。出雲王朝、邪馬臺國の王の言葉が唯一残されている部分です。そこがすっぽりと切り取られているのです。
 そうなると、どういう意味になるのでしょう。隋の使者清が[イ妥]王・倭王のいる都に着くと、[イ妥]王・倭王は使者の清と共に貢物を持ってやってきたということになります。
 なんということでしょう、邪馬臺國の王が自ら朝貢してきたという意味になるのです。唐王朝は、出雲王朝の姿を消そうと、このような、辻褄の合わないような改竄までしているのです。
 清の後から、次の清の字までを削っています。
 しかし、その部分が残されると、何がそんなに都合が悪かったのかということになります。
 その王の名前はすでに出ていますし、使者と会談したことも残されています。そうなると、その会談での会話の内容だということになります。使者清の言葉は、隋王朝の姿勢を述べているだけですから、そうなると、[イ妥]王・倭王の言葉の中に、唐にとってはなんとしても消し去る必要のある言葉があったということになります。
 では、唐にとってそんなに都合の悪い言葉とはなんだったのでしょう。そうなってきますと、『冀聞大國惟新之化』と述べているところではないかと思われます。つまり、『大国』という国名がそこに残されているということです。北方騎馬民族の出雲王朝、邪馬臺國、その国名が残されるということがどうも都合が悪かったようです。
 今までの流れからすると、唐はこの列島にいる倭人を呉の末裔と描く事で、倭国は太古の時代より中国のテリトリーにあったとしています。そして邪馬壹国を邪馬臺國と描こうとしています。それは、『邪馬壹国』とは別の国であったところの『邪馬臺國』を消し去り、あたかも『邪馬壹国』が、この列島の都『邪馬臺國』だったように見せかけようというものです。
 唐によるこういった歴史の改竄は、いったい何を目的としているのでしょうか。今まで検討してきたように、出雲王朝による列島支配を歴史から抹殺することだったということになります。
 それが、唐の時代の史書において、倭国を描く基本的視点となっており、その視点こそが、わが国の謎だらけの古代史の元凶となっています。何故なら、こういう考え方の唐が、この列島を征服し、唐にとっての都合の良く改竄された歴史をこの国に押し付けたからです。
 この列島の人々に押し付けられた偽りの歴史が、今に残る記紀認識なのです。そして、その唐王朝によって歪められた歴史観は、この列島の中枢を占める勢力によって今にまで引き継がれているのです。


<南史>

倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往?。人種禾稻、紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出黑雉、真珠、青玉。有獸如牛名山鼠、又有大蛇呑此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射中而蛇則死矣。物産略與?耳、朱崖同。地氣?暖、風俗不淫。男女皆露?、富貴者以錦?雜采為帽、似中國胡公頭。食飲用?豆。其死有棺無槨、封土作家。人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、或至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。婦人不??、無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。
晉安帝時、有倭王讚遣使朝貢。及宋武帝永初二年、詔曰:「倭讚遠誠宜甄、可賜除授。」文帝元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死、弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王、表求除正。詔除安東將軍、倭國王。

 南史も北史と同様、唐代に同じ作者によって作成されています。したがって、北史と同じ視点で倭国が描かれています。また、北史は隋書を基本にしていたように、南史は宋書を基本にしています。ところが、北史同様、宋書の部分に他の資料を加えることにより、文章全体の意味を違うものにしています。
 より正確にするために加えたというものではありません。一部文章を加えるだけで、宋書の元の文章を触らなくても、宋書がまったく異なった性格の史書になってしまうのです。
 上記の青い部分が挿入された文章です。それによると、倭国は、その先祖の出所は北史に詳しく書かれているとしています。そして、倭国の官職名に、本来『邪馬壹国』つまり女王国であるところの官職名を書いています。
 その後に倭国の風俗を描き、宋書の部分が続きます。北史の手法と同じです。女王国のことを描き、まるでその子孫であるかのように宋書に登場する倭の5王が後に続きます。

齊建元中除武持節都督、倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大 將軍。其南有侏儒國。人長四尺、又南有黒齒國、裸國。去倭四千餘里、船行可一年至、又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而 醜、其肉美。行者或射而食之。文身國、在倭東北七千餘里、人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土 俗歡樂、物豐而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。國王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲塹、廣一丈、實以水銀、雨則流 于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獸食之、有枉則獸避而不食、經宿則赦之。

 宋書の部分(赤字)の次には、卑弥呼の居た邪馬壹国の南に続く国を紹介する文章(青字)が加えられています。そうなりますと、倭の5王は、場所も系統も卑弥呼が居た女王国と同一の国になってしまいます。
 北史南史ともに共通しているのは、倭国は中国の末裔であるところの卑弥呼が邪馬臺国にいて、そして、宋書に出てくる倭の5王も隋書に登場する倭王も、卑弥呼の末裔だという描き方をしています。つまり、夷人であるところの出雲王朝によってこの列島が支配されていたことを消し去っているのです。
 唐代の史書を読む限りにおいては、卑弥呼のいた女王国が邪馬臺国であり、その後の倭王は卑弥呼の子孫であるとしか考えられなくしてあります。唐より前の史書には、こういった記述はありませんでした。唐によって、徹底した歴史の改竄が行われています。
 そして、それはこの列島を征服しようとする思惑がその根底にあったからだとも言えます。
 その考え方は、この挿入部分にも見受けられます。
 梁書においても検証したように、この列島の都のあった『大倭』、あるいは『邪馬臺國』の地を卑弥呼の地に移し、出雲王朝を消し去っています。その消し去った地に『文身国』を創作しています。また、文身国の国民は豊かだがお客に食べ物も出さないケチなやつらで、国王にいたっては、金銀財宝にまみれ、あの貴重な水銀を豊富に持っているが雨ざらしにしているほどだとしています。
 今でもそうですが、征服の対象は徹底して貶められます。侵略者は、まず征服しようとする相手を必ず悪者に仕立て上げます。そして、そんなに悪いやつだから何をしてもいいのだとばかりに征服して強奪するのです。
 その手法は、今も昔も変わりません。
 この挿入部分には、そういった侵略者の思惑が垣間見えるようです。
 では、唐代より後の史書はどうなっているのでしょうか。