<新唐書>
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。
新唐書は、1060年に完成しています。907年に唐が滅亡した後、150年以上も後に作られています。また、945年に(旧)唐書が作成されているのにもかかわらず、その後100年以上も経ってから作成されています。
どういう思惑があったのでしょう。当時の日本は、摂関政治により藤原氏全盛の時代です。
旧唐書では、冒頭、倭国とは古の倭奴国なりで始まっていて、倭国が中国の勢力下にあり、日本国は別種だと、日本国を北方騎馬民族である出雲の勢力と見なしているようでした。
ところが、新唐書になりますと、一転して日本は古の倭奴なりとされています。
これは、どういうことなのでしょう。
あれほど、徹底した出雲隠しや北方騎馬民族に対する排他的認識を示していたはずなのに、別種とまで記していた日本を古の倭奴だと、古くから中国のテリトリーにあったとしています。
旧唐書が945年に作られていますから、100年経って歴史認識が変わったということでしょうか。今までの歴史や史書を振り返れば、日本が古の倭奴だと、そう簡単に言えるものではないでしょう。むしろ、そうでは無かったというのが旧唐書までの中国の認識であったはずです。
その後には、旧唐書と同じように倭国の様子が記されています。
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。
風俗が描かれた後に、官位が12等あるとかその王の姓が阿毎氏だと隋書に出てきた王のことを記しています。ところが、その王が自ら言うのには、初めの主は天御中主で彦瀲に至るまで32世、皆『尊』を号として筑紫城に居むとあります。
はてさて、今までこのような内容が過去の史書に出てきたことはありませんでした。その王と隋王朝の使者は、邪馬臺であるところのこの列島の都に来た折に会談しています。その時会談した内容にこのようなことは記されていませんでした。むしろ、唐は、北史でその会談の内容を削除したくらいです。
『朝命は伝えたから塗を戒めよ』と使者の清が述べるくらいですから、決して和やかな会談だったとは思えません。その王とその後それ以上の接点が、隋とあったはずがありません。使者清との会談が初対面で、その後には国交が断絶したとありました。
本当に、その王が述べた内容なのでしょうか。初めの主が天御中主であるというのは、古事記に登場します。唐は、北方騎馬民族であるところの出雲王朝を滅ぼし、その出雲王朝の歴史を抹殺して自分たちに都合の良い歴史を作り上げるために記紀を作成しました。唐王朝の傀儡国家が誕生した後に創作された記紀の内容を、その滅ぼされた側の王が、滅ぼした側に都合の良いその歴史をいつ述べたというのでしょう。
大国主命が国を譲ったとする記紀に出てくるお話と、同じような手法に思えます。彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治するとあります。
いわゆる神武東征、まったく記紀の歴史認識そのものです。
次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。
この新唐書には、神武以来平安朝の頃までの天皇の名前が記されています。
わが国では、これだけの天皇が続いていると述べているのですが、過去の史書には神武天皇を初めとしてどの天皇も誰一人として名前が登場していません。
また、天皇なる者がいるということすらどこにも出てきませんでした。
ところが、旧唐書にもまったく姿を現さなかった天皇の系図が、いきなり新唐書には出てくるのです。
一方、今まで数多くの史書に登場してきた卑弥呼も女王国も、あるいは、邪馬壹国、邪馬臺国といった国々の名前も新唐書には出てきません。
いったいどういう歴史なんでしょう。
欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。
ここには、その実態が記されていると言えます。
まず、欽明の11年が梁の承聖元年に相当すると述べています。つまり、記紀にあるところの年号を、中国王朝の年号とすり合わせもしていたということになります。
そして、用命天皇が目多利思比孤だとしています。その用命天皇は、隋の開皇末に初めて中国と通じたというのです。
このようにして、この列島の歴史が創作されていたということです。つまり、創作された歴史の辻褄合わせをしていたと、ここでは述べています。
この時に、大きな歴史の改竄が行われていたことを意味しています。
咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。
咸亨元年(670)に高句麗を平定したのを祝して使者が来たとあります。
そして、旧唐書にあった日本国の紹介文がありますが、やはり創作の跡が見られます。
日の出る所に近いので日本という国名にしたとなっています。これは、日本国命名の根拠として今もよく言われているところです。
ところが、旧唐書では、そうではありません。
『以其國在日邊,故以日本為名』
邊とは、辺、あたりという意味です。つまり、日のあたりにあったので日本という名前にしたとなります。日の出るところに近いという意味は何処にもありません。日(ひな)という地域にあったのでそういう名前になったと読めても、日の出るところに近いとは読めません。
やはり、日(ひな)という地域、あるいは国が出雲にあったことを消しています。
また、日本は小国で、倭に併合されたとなっていますが、これも全然違います。為したのは倭だということは、倭国が日本を併合したとなってしまいます。
『日本舊小國、併倭國之地』
このように旧唐書では、倭国の地を併合したとなっています。宋書にあった記載などともまるっきり逆です。
新唐書は、あまりにもその記述に旧唐書と異なるところがあります。それが、今までの史書と違い過ぎるので、その内容に疑問を抱かざるを得ません。
670年に行ったというのも旧唐書にはありませんでした。たしかに668年に高句麗は唐と新羅によって滅ぼされているので、話の辻褄は合うように見えますが、670年と言えば、663年に白村江の戦いで倭国の勢力が壊滅的な敗北をした後になります。高句麗と同様に、倭国も滅ぼされているような状況下です。白村江の戦いの後、唐の支配下に置かれている中で、日本という国に変えましたなどと普通に行けるとも思えません。それも、その使者が唐から不信に思われているのです。敗北した国から行くとすれば、敗戦処理に行くようなものですから、お祝いに呑気に行くような国情ではありません。
むしろ、日本という国に国名を変えた動機や時期、その根拠など旧唐書にあった記述を別物にするというのが狙いのようです。旧唐書にあったように、白村江の戦いの前に、出雲王朝の使者が648年に日本国改名の報告に行ったというのが自然でしょう。そして、中国から信用されなかったというのもその対抗勢力と見なしていた出雲王朝だからということになります。
こう見てきますと、中国の史書も唐王朝の前と以後で倭国に対する記述が全く異なるものになっています。つまり、中国のテリトリーをかなり意識しているのと、北方騎馬民族であるところの出雲王朝による列島支配を消そうとしています。
さらに、新唐書では、それまでの史書とは全く異質の記載になっています。数多く登場していた国の名前も消し去られ、天御中主から神武以来の天皇の支配のみがあったという内容になっています。卑弥呼すら消されているのです。すなわち、万世一系という記紀の歴史認識そのものによって新唐書の日本伝は記されているということになります。
では、旧唐書には、どうしてわずかでも記紀の内容が記されなかったのでしょう。
旧唐書が完成した945年といえば、記紀が完成したと言われる700年台から200年以上も経過しています。新唐書完成は、記紀以来300年も経過していることになります。
そうなりますと、今に残されている記紀は、旧唐書の完成以降、平安朝の時代に書き換えられていたのかもしれません。その頃に、藤原氏にとって、都合の良い歴史が生み出されたと考えられます。
『この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたる月も なしと思えば』
道長は、このような歌を詠むほどに列島の支配を思うがままにしていました。
今のわが国の歴史認識は、この新唐書の歴史認識となっているのです。本来の歴史ではなく、『新しく』改竄された歴史が、この列島の歴史認識としてこの列島の人々に押し付けられたまま今に至っています。そのために、今を以ってわが国の成り立ちの歴史は、混沌とした理解不明のものとなったままです。その根源は、この改竄された歴史にありました。
では、なぜ歴史を改竄しようとしたのか、その動機が問題となってきます。
それは、907年に唐王朝が滅ぼされ、この列島に、その王朝貴族が流れ着いたことにあります。
それまでの史書は、大陸の王朝から、この列島を見下す視点で描かれていました。ところが、その王朝貴族がこの列島にやって来たとなりますと、今まで散々卑下していた地に、今後は、自らが身を置くことになるのですから、逆に卑下される立場に陥ることになってしまいます。
『超』が付くほどの自己中心的な彼らにとっては、そんなことに耐えられる訳がありません。
ですから、この列島の歴史を太古の時代に遡ってまで、尊い歴史に仕立て上げなければならなくなりました。
この新唐書に『卑弥呼』も『女王国』も『邪馬壹国』も『邪馬臺国』も登場しないのは、この列島が過去、そのような忌まわしい勢力によって支配されていたなどという歴史を、消し去りたかった野でしょう。
しかし、だからといってこの列島に住む人々に対する視点が変わるわけではありません。
今現在に至るまで、彼らのこの列島に住む人々に対する視点は、獣並みの『倭人』でしかありません。
この列島に流れ着いた唐王朝の勢力は、必ずや、再び大陸へ戻り唐王朝を再興せよと後の藤原氏に命じています。それが、古事記に記されています。その指令に基づき、今でも大陸回帰の動きは続けられています。
歴史を改竄したのには、もう一つの要因がありました。
大陸にいた唐王朝は、この列島の都『やまと』のあった出雲の地や、出雲王朝による支配を消すために、この列島の都を、西都原の卑弥呼の地にあったという最初の改竄を、梁書や北史・南史で行っていました。つまり、宮崎の地にこの列島の都があったということにしたのですが、彼らが、この列島にやって来て、奈良の地に古来より都があったということにしますと、全く辻褄が合わなくなってしまいます。さらに、その卑弥呼の地に都があったことも消そうとしますと、ますます整合性がなくなります。
そこで、第2の改竄をしなければならなくなりました。大陸にいた時に、この列島の都を出雲から西都原に移した彼らは、この列島にやって来て、都を筑紫に移し、それをさらに奈良の地に移すことにしたのです。そのために、『神武東征』という概念と手法が生まれています。
わが国の成り立ちの歴史は、大陸にいた唐王朝がまず改竄し、次にその唐王朝がこの列島にやって来て、さらに改竄したものが、この列島の人々に押し付けられ、今に至るまで変わることなくその歴史認識が引き継がれています。
一度嘘をつくと、さらに嘘を積み重ねることになるという典型のようなものです。
しかし、今のわが国では、その改竄に改竄を重ねた歴史が、堂々と、まかり通っています。
そのために『分からない』、『分からない』と、『分からない』ままでいかなければどうしようもない状況が続いています。いわゆる『邪馬台国』論争に決着が付かないのは、あるいは、付けられないのは、こういう背景があったからです。
彼らは、その都度その都度、自らの支配に都合よく歴史を改竄するというのが基本的姿勢です。それは、今現在も、全く変わりはありません。再び大陸を征服しようという意図を隠している彼らにとっては、明治以降大陸に向かった『侵略』行為は『正義』の行動なのです。
早くそのことに気づかなければ、いつまで経ってもわが国の歴史は、改竄の歴史のままでしかありません。さらに、その改竄した勢力によって、今もなお、この列島が支配され続けているということも大きな障害となっています。
『旧唐書』は、旧いからだめだ、『新唐書』は、新しいから良い、そう思わせようとするのがその勢力の狙いなのかもしれません。
1060 年に、『新唐書』が北宋の欧陽修によって編纂されていますが、同じく北宋において、1069年に司馬光が『資治通鑑』を編纂する時、『新唐書』には誤認があると『新唐書』は使用せず、『旧唐書』を採用しています。ところが、わが国ではその誤認があるとされた『新唐書』の認識が、今のわが国の基本的な歴史認識となっているのです。
今のわが国でもそうですが、ことさら『新しい〇〇』と強調される時には、『新しいから良い』と思わせようとしているかもしれないとよく考えることが必要です。つまり、『新しい〇〇』といった場合、それは『新しく改竄した』といったことだったり、本当は全然新しくもない場合があるということです。
彼らは、彼らによって改竄され捏造された『新しい歴史認識』をこの列島の人々に押し付けたのです。その手法は、彼らの末裔たちの手によって今も営々と引き継がれています。
ですから、私達は、唐王朝・藤原氏によって『新しく』改竄される以前の、本来の歴史を取り戻さなければなりません。
そして、『この列島を征服したことも歴史を改竄したことも隠蔽したまま、1300年にわたって支配し続けている勢力がいること』を認識できれば、この列島の歴史は、容易に理解することができます。