邪馬台国は出雲に存在していた

以下は、2022年11月、全国邪馬台国連絡協議会へ応募したものです。

『邪馬台国は、出雲に存在していた』
                                             西 山 恒 之
<はじめに>
 西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、この列島に存在していた『邪馬台国』は、大陸の唐王朝によって占領征服されてしまった。そして、彼らに都合よく歴史が作り替えられ、邪馬台国は、この列島の歴史から葬り去られてしまった。そして、この列島は太古の時代から天皇の支配下にあったかのごとくの物語が創作され、今に至るまで、この列島の人々は、その改ざんされた「偽りの歴史」で洗脳され支配され続けている。
 我が国の成り立ちの歴史には、数多くの疑問や謎がひしめいている。それは、歴史が風化したのではなく、歴史が改ざんされたことに起因している。「邪馬台国はどこに存在していたのだろう?」、「なぜこの国には天皇が存在しているのだろう?」、「武士のルーツは?」などなど、多くの疑問や謎は、この唐王朝の勢力による歴史の改ざんが根源にある。
 また、唐王朝は、この列島を占領征服した後も、引き続き植民地支配下に置き、この列島の人々は、奴隷のごとくに支配されてきた。しかし、そういった歴史は、この列島の人々には一切知らされることはないので、未だに歴史の闇の中で翻弄され続けるしかない。

1、 万葉集の解釈に疑問
 過日、私は、京都駅ステーションビルのとある書店で、万葉集に関する書籍を手にした。そこには、綺麗な奈良路を背景に、数々の歌が紹介されていた。また、万葉集には数多くの疑問があることも書き綴られていた。興味を持った私は、その書籍を購入し、帰宅してからも読みふけった。
 数多くある疑問の中で、私が最も疑問に思ったのが、第2首「国見の歌」と言われている歌だった。
『大和には 群山あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は』 
 この歌は、当時の都だったとされる奈良大和にある香具山に、当時の王が登って詠んだと解釈されている。
 ところが、当然ながら、奈良盆地には、海もなければ「あきづ島」、つまりトンボのような形状の島など何処にも存在しない。そこで、通説にあっては、香具山の近くに埴安の池があり、それを『海に見立てて詠んだ』とある。「あきづ島」とは、この列島をあきづ、トンボのようだと詠んだとのことだった。つまり、この歌は、空想の産物だとされている。その王は想像でその歌を詠んだと解釈されているが、私には、空想どころか、むしろ潮の香りすら漂ってくるほどに写実的な歌のように思えた。
 まずは現地調査あるのみと、奈良大和にも行ったが、『万葉集第2首は、奈良盆地で詠まれてなどいない』と、ただただ確信が深まるばかりだった。
 そんな時、北九州に高山、あるいは香山とも呼ばれる山があり、そこは見晴らしもよく、「天の香具山」ではないかと言われているということを知り、北九州にも行ったが、そこも第2首の条件を満たしてはいなかった。
 我が国の歴史では、古代の都「やまと」は、奈良に存在していたことになっている。ところが、その都「やまと」で詠まれたとされる万葉集第2首が、奈良で詠まれていなかったとなると、『古代の都「やまと」は、奈良盆地には存在していなかった』と言わざるを得ない。
 では、我が国の古代の都「やまと」は、何処に存在していたのだろうか。
 その疑問を解明すべく、我が国に残されている数々の文献や各地の遺跡を調べたが、その答えは何処にもなかった。私は、我が国の歴史の根幹に関わるとてつもなく大きな疑問と謎に呆然とするしかなかった。
 そんな時、『この列島の都であるならば、中国の史書に何らかの痕跡が残されていても不思議ではない』と、ふと思い浮かんだ。暗闇の中で、一筋の明かりを見出した思いだった。
 そして、それ以後は、中国の史書を検証することにした。

2、 中国の史書から「邪馬台国は出雲」に到達
 漢書には、1行ほど、この列島に関わる記述があった。次に三国志魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝を検証した。しかし、そこには、女王国「邪馬壹国」は登場するが、「邪馬臺(台)国」という記述は、どこにもなかった。よく言われるところの「邪馬台国の女王卑弥呼」といった記述も、そういった概念すらないということも分かった。
 だから、その作者であるところの西晋の陳寿が、本来「邪馬臺国」と書くべきところを「邪馬壹国」と「臺」を「壹」と書き間違えたと解釈されていた。「壹」と「臺」は全く意味の異なる文字だ。国を代表する歴史家が国名を書き間違えるなどあり得るのだろうか。例えば、我が国の文部科学省が我が国を紹介する文章で、字が似ているからといって「太平洋」を「犬平洋」などと間違えるようなもので、そんなことは有り得ないとしか思えなかった。
 そうなると、『魏志倭人伝には、邪馬台国は登場していない』ということになってしまう。そして、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識も成り立たないことになる。
 我が国のみならず、中国の史書にも大きな疑問が立ちはだかってきた。いったい我が国の歴史はどうなっているのだろうと、ますます混迷に陥ってしまった。
 次に後漢書を検証した。そこには、この列島には、『大倭王が「邪馬臺国」に存在している』という記述があった。さらに、卑弥呼の国は、その「邪馬臺国」とは別の女王国として描かれていた。後漢書にも、「邪馬台国の女王卑弥呼」という記述も概念もなかった。
 次に、隋書を検証すると、隋の使者がこの列島の大倭王のところにやって来るという記述があった。したがって、その使者の足取りを辿っていけば、当時の都に行き着くことができるのだ。その使者は、北九州に上陸し、さらに東に向かい、10余国を経た後に、『達於海岸』とあった。その使者は、大陸から海を超えてやってきているから、決して海が珍しい訳ではない。つまり、険しい内陸部を経てようやく海岸に出たという思いを表現したのだと思った。瀬戸内海を船で航行したり、海岸沿いを移動したとすると、常に海が見えているので、そういう表現にはならない。
 そうなると、中国山地を越えたのではないかと考えた。今も、下関から日本海に抜ける国道9号線のルートがあり、そのルートを経て日本海側へ出たのではないだろうか。すると、そこは益田で、ちょうど、海に出たというエリアになる。
 そして、そこで歓迎の式典が催され、10日ほどして都から騎馬隊のお迎えがやってきて、その数、200騎とあった。
 これらの記述を見たその瞬間、『これって、出雲?!』と、私の中に閃光が走ったような衝撃を覚えた。
 10日という距離感や、200騎もの騎馬隊で迎えに来るということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だろうと考えた。
 この時、それまで思いもよらなかった「出雲が都だった」という認識に到達した。
 そして、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都「邪馬臺国」と一緒だという記述もある。この時、長年議論されている「邪馬台国」は、実は出雲に存在していたという認識に到達した。
 さらに、「景初3年」の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことにより、出雲が都であり、かつ「邪馬台国」であったことは動かしがたい事実として確信を深めた。
 これで、この列島の古代の都の場所が特定できたのだ。
 そうなると、第2首が詠われたのは出雲なのかもしれないと、いよいよ当初からの謎の解明に王手がかかった。

3、 天の香具山に到達
 しかし、たとえ出雲の地が当時の都だったとしても、では、どこで第2首が詠まれたのかとなると、そう簡単には分からない。
 とりあえず、出雲について調べてみることにした。出雲風土記、出雲大社、熊野大社、八重垣神社、日御碕、宍道湖等々、あるいは荒神谷遺跡など謎の宝庫とも言えるほどに多くの歴史的遺産を残している。さすがこの列島の都だったことはある。
 その歴史を遡る中で、今は本州とつながっている島根半島が古代にあっては島だったことが分かった。それも細長い島だ。まさしくトンボのような形状をしている。島だから、当然その周辺には海が広がっている。
 そして、日御碕の近くに経島(ふみじま)、あるいは御厳島(みいつくしま)と呼ばれて、古来より禁足地とされている島があることも分かった。その島は、ウミネコの繁殖地となっていて、12月頃におよそ5千羽が飛来し7月頃にはまた飛び去っていくとある。今は、ウミネコと呼ばれているが、鴎科の鳥だ。鴎とウミネコの違いは、判別しにくい。古代にあっては、鴎と呼ばれていたと考えられる。次第に、第2首の歌の条件が揃ってきた。
 出雲は、たたら製鉄の国だから、製鉄やその加工には多くの木材を燃やす。 
 その煙が山や周辺のあちこちで立ち昇っていたことだろう。
 となると、あとはどこに王がいたのかということだけだ。
 実は、あの出雲大社から大きな柱が発掘され、そこに32丈、およそ96メートルはあったかという当時にあっては超高層の神殿が建っていたことも明らかになっていた。そこに時の王が君臨していたと考えると、その巨大な神殿の意味も見えてくる。何と言っても、この列島を代表する国家的象徴だから、出雲王朝の威信の表れといったところだろう。いよいよ王の居所も特定できた。
 あとは、『天の香具山』を探すのみである。
 もし、出雲大社の地に王がいたということになると、国見をする場所はその付近だと思われる。
 出雲大社の西に稲佐の浜がある。
 稲佐の浜というと、大国主命が『国譲り』を迫られた場所として古事記にも登場する。その浜には、予想通りウミネコが数え切れないほどに飛来していた。だが、ほとんど鴎にしか見えない。次に日御碕へ向かい、ウミネコの繁殖地である御厳島も確認した。その島の上一面がウミネコの群れで覆われていた。
 こうして、出雲大社の地を検証し、ほとんど、第2首の詠われた地域として間違いないと確信した
 そして、周辺の山々を地図で検証し、実際に自分の目で見た印象と合わせると、出雲大社の東には標高100メートルから数百メートルの山々が連なり、そこは王が気軽に登れる山とは思えないし、海や鴎から遠ざかってしまう。
 では、西側で気軽に登れる山はないかと探すと、稲佐の浜沿いに奉納山という70メートルほどの手ごろに登れそうな山があった。出雲大社などに残されていた古絵図にも、その奉納山が描かれている。
 これらの検証により、この『奉納山』と呼ばれている山こそが、『天の香具山』であろうという確証を得た
 そして、奉納山のふもとに行くと、そこにはいくつかの神社があった。さらに、頂上に上がると、そこにも小さな神社があり、鳥居が斜面のぎりぎりのところに設置してあった。奉納山は、4つの神社で取り囲まれているのだ。
 この山、そしてこの頂上は重要な意味を持っているということを今に伝え残している。
 その頂上には、展望台が設置してあった。当たり前のことだが、今も昔も見晴らしの良さに変わりは無かったということだ。
 早速、その展望台に上がると、それはもう感動ものだった。東は遠く東出雲のあたりまで見渡せ、西は出雲以西の海岸線が一望に見渡せる。そして、中国山地の山々や、広大な日本海が眼前に広がっている。
 第2首が詠まれた当時、その山々からは、たたら製鉄の煙があちこちから立ち昇っていたことだろう。また、今は、南側、その頃の対岸との間は平地となり町並みが広がっているが、当時は海だったから入り江、あるいは内海といった、瀬戸内海のような美しい海岸線が見えたことだろう。
 そして、その山の周辺の沿岸には、御厳島から飛来する鴎(ウミネコ)が飛び交い、その声が鳴り響いていたことだろう。
 とうとう、第2首の詠まれた「天の香具山」を探し当てることが出来た。
 千数百年もの昔に、時の王が国見をした場所に自分が立ち、その当時と景色は大きく変わったとは言え、第2首の詠み人と同じ視点から同様の景色を眺めていると思うと身震いがしそうだった。
 そして、その出雲の地こそが、当時の都「やまと」であり、「邪馬台国」だった。

4、 唐王朝に滅ぼされた邪馬台国・出雲王朝
 では、次は、出雲にあった都「やまと」・「邪馬台国」は、どうなったのかということになる。
 そこで、まず思い浮かぶのは、古事記に登場する「国譲り」のストーリーだ。
 天照の命を受けて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、出雲の伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜で剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫り、大国主命は国を『献上』すると言ったとされている。
 その稲佐の浜では、毎年旧暦の10月10日に神迎祭が、そして、その翌日から1週間、神在祭が仮宮を中心として執り行われている。その仮宮は、奉納山のふもとにあり、出雲大社に残る古絵図では、仮宮は、当時の浜辺に位置している。
 その神在祭には全国の神々が集まり、他の地域では『神無月』だが、出雲では『神在月』と言われる。そして、その神在祭の期間中、出雲大社の周辺では、大きな音をたてない、歌舞音曲の類いは控える、大工仕事はしないなどなど、ほとんど謹慎し、静かにしているので『御忌みさん』とも呼ばれている。お祭りとはほど遠く、ほとんど葬儀か法事のようだ。
 これらの一連のことから推測され、行き着いた結論は、出雲にあった都は滅ぼされたということだった。そして、そこに居た大国主命は抹殺され、その命日が旧暦の10月10日で、毎年その冥福を祈って、全国の神々が集合し、神事が執り行われているという認識にも至った。その集合場所である仮の宮の位置こそが、大国主命やその臣下が抹殺された現場であろう。
 では、出雲にあった都、邪馬台国を征服したのはどういった勢力だったのだろう。
 その痕跡は出雲大社に残されていた。出雲大社の出雲国造家の神紋は、亀甲に剣花菱で、剣花角とも言われる。花菱は、唐花、唐花菱とも呼ばれ、その花菱に剣が組み込まれているので、まるで剣で唐が征服したと伝えているようだ。一方、出雲大社の神紋は、有である。有という文字は、十と月で構成される。つまり、出雲王朝が十月に滅ぼされたことを今に伝え残している。
 そして、出雲を征服せよと指令を出した天照は、今もわが国の最強の神社である伊勢神宮に奉られていて、その神紋は花菱だ。剣は描かれていないので、唐そのものを意味している。
 こうしたことから、邪馬台国・出雲王朝は、唐王朝によって滅ぼされたのではないかということが見えてきた。

5、 史書に残された占領征服の軌跡
 まず、唐に先立つ隋だが、581年に楊堅が隋を建国し、589年には中国全土を統一する。しかし、統一はしたものの、第2代煬帝で隋は滅んでしまう。 
 煬帝は、高句麗遠征を3度も試みるが、ことごとく失敗し、内政においても、百万人もの民衆を動員して華北と江南を結ぶ大運河を建設したり、さらに民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥る。その混乱に乗じてとばかりに、隋の武将でもあった李淵は、首都大興城を陥落させ、煬帝を太上皇帝に奉り上げる。そして、617年、煬帝の孫、恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。
 その翌年、江南にいた煬帝が近衛軍団に殺害されると、李淵は、恭帝から『禅譲』を受けて即位し、唐を建国した。とは言え、隋も唐も同一民族による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎない。今で言う『政権交代』のようなものだ。
 皇帝の地位をそれに相応しい血縁関係にある者へ引き継ぐ場合は、『譲位』とされるが、そういった血縁関係に無い者へ『合意』の上でその地位を引き渡すことが『禅譲』とされている。『禅譲』の多くは、強制的に皇帝位を奪い取った者による、その征服を正当化するための欺瞞的手段で、実質的には『簒奪』とも言える。あくまで、征服者にとって都合の良いやり方である。
 まずは武力でもって制圧し、その後に都合よく、まるで強制ではなく譲られたんだという形で皇帝位に就く。煬帝が、ことさら暴君だったと描かれているのも、その李淵による『簒奪』を正当化しようということなのかもしれない。これが、唐王朝を築いた李淵の手法だ。
 ここから、古事記における『国譲り』のストーリーの意味が見えてきた。つまり、『国譲り』とは、唐王朝が、出雲王朝を占領征服したにも関わらず、『譲られた』とする彼らの手法『禅譲』だったのだ。さらに、大国主命から『献上』されたなどと、都合よく侵略行為を美化している。それゆえ、煬帝と同様に、この列島の始祖神だった『スサノオ尊』も悪行三昧の荒神に貶められてしまった。
 唐王朝第2代皇帝李世民太宗の時代は、『貞観の治』とも言われ、善政だったと評価されてもいるが、第3代皇帝李治高宗の時代になると一変する。
 649年、李治が、第3代皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となる。
 当時、唐王朝は道教を推奨していて、その道教の理念を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、皇后を『天后』と改称している。ここに、我が国の今にまで続く天皇の『ルーツ』がある。
 武則「天」の幼名・本名は武「照」だ。武則天は、後に即位し聖神皇帝を名乗る。つまり、聖「神」皇帝たる「武」則天で、「神武」だ。すなわち、天皇の祖先が「天照」だとか、初代天皇が「神武」だといったことは、天皇のルーツが「武則天」にあることを伝えていた。つまり、天皇の祖先とされる「天照」の正体とは、天皇の命名者である武則天だったのだ。
 さらに、中国皇帝制度にあって唯一「天皇」を名乗ったのが李治で、唯一「天后」を名乗ったのが武則天だ。一方、我が国の天皇の諡号で「天」がつくのは「天智」と「天武」だけだ。すなわち、『天』皇であるところの李『治』で『天智(治)』、『天』后であるところの『武』則天で『天武』ということを示唆していた。天智が兄で天武が弟とされているのは、肉親ということではなく、唐王朝の宗家と外戚という上下関係を意味している。年齢では、武則天の方が5歳ほど年上になる。
 また、「釈日本紀私記」には、淡海三船により、神武から元正に至る天皇の漢風諡号を一括撰進したことが記されており、聖武天皇より前の天皇は存在などしていなかった。したがって、初代天皇から書き記す今に伝わる古事記は、8世紀後半に作成、あるいは改変されたものと考えられる。
 さて、大陸に残された史書、資治通鑑には、この列島が、唐王朝によって侵略征服される当時の様子が残されていた。資治通鑑は、北宋の時代、1084年に司馬光によって作成されており、紀元前403年から954年、北宋が建国されるまでの歴史が、編年体で記されている。
 660年に、朝鮮半島は大きな戦乱状態に陥り、百済と高麗が新羅を攻め、新羅は唐に救援を求め、唐王朝は、この期にとばかりに、東アジアの制圧を目指した。
 その戦乱において、唐の武将「劉仁軌」に、朝鮮半島やこの列島を制圧するように指令が下る。
 仁軌は新羅の兵と合流して、百済軍を打ち破りながら進軍していく。それに対し、662年、百済は、この列島の「倭国」にも援軍を要請してくる。
 その翌年663年の9月、孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとある。さらに、仁軌等は、水軍及び糧船を率いて、倭兵と白江口にて遭遇した。これが、『白村江の戦い』と言われており、仁軌軍は、四戦して全勝し、倭国の舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったと記されている。
 倭国、つまり出雲王朝は、5万人とも言われる軍勢を百済救援に送り込むが、ことごとく殲滅されてしまった。その直後に百済は滅ぼされてしまい、倭国もその主力部隊を失ったため、この列島は仁軌率いる唐王朝軍にあえなく占領征服されてしまった。
 そして、朝鮮半島やこの列島は、引き続き唐王朝の支配下に置かれるが、664年10月、検校熊津郡都督の仁軌が、皇帝にいくつかの進言をしている。
 仁軌が兵士に「今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ」とその様子を尋ねる。そして、その兵士たちの状況を、皇帝に「兵士達が持っている衣を検分すると、今冬は何とか身を覆うことができるでしょうが、来秋はどうやって過ごせましょうか」と伝えている。
 これらのことからも、唐王朝軍によりこの列島が制圧されたのは、664年10月の1年前だということが分かる。
 仁軌は、さらに重要なことを述べている。
 「陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます」
 『還成一國』
 この列島に守備兵を配置しておかなければ、元の「一国」に戻ってしまうと述べている。すなわち、卑弥呼のいた女王国の名称が、魏書において『邪馬壹国』とあったが、それは書き間違いでも認識間違いでもなく「一国」、つまり「壹国」でなければならなかったことが、唐王朝の家臣の言葉によって証明されたことになる。
 この列島は、高句麗征服のため、そして東アジア一帯を自国の支配下にしようとする大唐帝国構築のために制圧され、その後も占領支配が続けられていった。

6、唐王朝の占領下で歴史が変えられる
 西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、この列島の都「やまと」・「邪馬台国」があった出雲の地は、唐王朝によって占領征服され、列島全域もその支配下に置かれた。
 唐王朝の勢力は、唐(藤)を源(原)としているという意味で、「藤原氏」を構成し、王朝を補佐する佐藤、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤など全国に支配勢力として派生していく。そして、その後も彼らによって占領支配されたまま、政治・経済・文化・歴史などなどあらゆるものが彼らに都合よく作り替えられ、その支配は延々と今にまで続く。
 また、この列島は、武則天の勢力である武氏、つまり武士によって占領征服されたので、その後も武士によって支配されていく。ちなみに、武則天の父の名は、「武士彠」で、3人の兄は、「武士稜・武士譲・武士逸」だ。
 さらに、彼らは、自らに都合よく歴史を改ざんした。そこにあっては、天照、つまり武則天は、征服などしていない、大国主命に譲られたとし、この列島は太古の時代から自らの象徴である天皇が支配していたかのような歴史を創作した。
 そして、それ以来、出雲王朝の存在は消され、古代の都「やまと」は、出雲ではなく奈良盆地に存在していたことにされてしまった
 それゆえ、出雲王朝を歌い残した万葉集も、そういった記紀認識で解釈が歪められた。出雲にあった都「やまと」だけでなく、吉野、淡海(近江)も、あたかも奈良や近畿に存在していたかのような改ざんが行われた。これこそが、万葉集に数多くある矛盾や謎、不可解な解釈の最大の要因だった。

7、唐王朝の復活こそがすべて
 さて、わが国を支配下にした唐王朝だが、税の徴収で民衆を散々苦しめたため、907年に節度使の朱全忠や民衆も含めた反乱により滅ぼされ、大陸から追放された。そして、唐王朝の勢力は、彼らが支配下にしていたこの列島に逃避するしかなかった。その時に奪われないようにと持ち込んだのが、東大寺正倉院に今にまで保管されている膨大な宝物の数々だ。
 唐王朝の李氏は、この列島に逃避してくると、李という文字は、「木」と「子」、つまり「きし」なので「岸」を名乗り、その後もこの国の支配勢力の領袖として今にまで至る。
 この列島を支配下にする唐王朝の勢力にとっては、これ以後、大陸における『唐王朝再興』こそが、その最大の存在意義となる。その思惑や陰謀は、彼らのルーツでもあり最高の神である天照の指令として古事記に残された。
 第14代仲哀天皇の段で、仲哀天皇が、神のお告げを請い求めると、その神は、『西方の種々の珍しい宝物がたくさんある国を帰服せよ』と答える。しかし、仲哀天皇は、西の方を見ても何も見えないので、その神の言うことに不信を持ち、知らん顔をして琴を弾いていた。するとその神は、『およそこの天下は、お前の統治すべき国ではない』と怒り、仲哀天皇はそのまま絶命してしまう。まるで、神の言うことに従わない者は、たとえ天皇であっても許されないということを意味しているようだ。そして、その皇后が、また神に問いかけると、『これは天照大神の御意志である』と答えた。
 つまり、天照の意思は絶対だと言っているのだ。絶対的な権力者であったかと思われた天皇の背後には、さらに強力な支配者がいたことを意味している。
 すなわち、唐・藤原氏こそが、天皇をシンボルとする実質的な支配者だったということになる。そして、大陸侵略に消極的な天皇は消されるかもしれないという、藤原氏からの『脅し』とも言えるほどの強烈なメッセージが残されている。
 しかし、王朝貴族の彼らには、そんな力はない。そこで彼らは、「この列島の人々を徹底的に騙して大陸侵略の手先にせよ。しかし、その思惑は決して口にするな」と古事記に残した。それが、『因幡の白兎』の逸話に秘められているメッセージである。
 その秘められた思惑に基づき、自らの守護と大陸侵略にむけて武則天をルーツとする武装勢力である武士を増強していく。平家、源氏、北条、徳川等々、あたかも時代が変わったかのように思わせているが、その本性には何ら変わりはない。彼らの常套手段、目眩しであるところの『政権交代』でしかない。
 そして、秀吉の時代、あるいは明治維新以降、唐王朝再興を目指して大陸を侵略していった。しかし、そんな時代錯誤も甚だしい企みは、世界の民主主義勢力によって破綻した。ところが、彼らは、戦後もその大陸侵略の思惑を持ち続けている。そのために、平和憲法に反して自衛隊なる軍隊を再配備し、米軍基地も存続させ、着々とその準備工作を進めている。消費税などの増税は戦費調達、憲法改定は侵略戦争の合法化を意味する。
 1960年代後半以降、現職総理大臣は、ほぼ毎年、年始に伊勢神宮を参拝している。我が国の最高権力者が、政教分離を厳格に定める憲法に反し、大陸侵略への大号令を発している天照、つまり『武則天』への忠誠を誓っている。
 今また、この列島に潜む唐王朝の残党勢力は、大陸回帰のためにこの列島の人々をとことん騙そうとしている。我が国の人々は、再び「サメ」のように、彼ら「白兎(唐)」の手先として大陸侵略に利用されようとしている。

<終わりに>
 中国に残されている史書から我が国の古代の姿が見えてきた。
 40年にわたる「倭国大乱」を制したスサノオ尊は、宮崎の西都原に居た卑弥呼を女王とし、その国名を「一」国とした。つまり「邪馬壹国」である。一方、スサノオ尊は、出雲で実質的支配者の国を「大国」とした。つまり「邪馬臺国」である。その大国の主が、今で言う総理大臣に相当する最高権力者たる「大国主命」である。
 スサノオ尊が、卑弥呼の国を「一国」とし、スサノオ尊の国を「大国」としたのには、大いなる意味があった。それは、「一」と「大」という文字を合体すると「天」という文字になるからである。ここに国家的象徴である「天」が誕生した。
 スサノオ尊は、倭国大乱を制した覇者だ。しかし、卑弥呼に代表される在来の勢力を「一」のように上に称え、自らの勢力は、「大」のようにその下で支えるという国家体制を築き、国名にもその姿勢を体現化したのだ。
 そして、出雲の神々は、感謝の思いを込めて、全国津々浦々の神社で祭神として祀られた。また、その神社の参道には、国家的象徴「天」の文字を象った鳥居が築かれた。
 この国家体制は、663年まで続き、その姿が中国の史書にも残された。
 だが、663年旧暦の10月10日、出雲王朝は、唐王朝によって滅ぼされ、その地に居た多くの人々は、遠く東北の地まで逃避するしかなかった。出雲弁と津軽弁の共通するイントネーションにその痕跡が残されている。
 唐王朝第3代皇帝李治、その皇后武則天の時代になると、水銀を豊富に産出するこの列島に対する征服欲が強まり、その思惑から歴史を意図的に歪めた。その時代に編纂された梁書、北史、南史は、大陸の王朝からの視点で歴史が歪められた。その中では、「邪馬台国の女王卑弥呼」という概念が創作されていた
 その後、この列島に逃避してきた唐王朝の残党勢力の視点で歪められたものが新唐書として残されている。そこでは、邪馬台国も卑弥呼も消し去られていた。
 それ以前に記された魏志倭人伝や後漢書、宋書、隋書、旧唐書などには、特に間違いや改ざんの痕跡はなく、そのまま読んで問題はない。
 我が国は、唐王朝・藤原氏等による徹底した支配下に置かれてきたため、彼らによって都合良く改ざんされた「新しい歴史」がこの国の歴史だとされている。
 つまり、記紀認識は、唐王朝の残党勢力の視点で、原型を留めないほどに改ざんされており、ほとんど創作された歴史物語である。
 したがって、邪馬台国や我が国の古代史の解明とは、その改ざんされ、消された歴史を取り戻すことだと私は理解している。