万葉集に詠い残された出雲王朝・邪馬台国

(この説文は、2021,11に全国邪馬台国連絡協議会・『私の邪馬台国論』に投稿したものです)

 

『万葉集に詠い残された出雲王朝・邪馬台国』 
      
                                  西山恒之

<はじめに>
 日本人は、改ざんされた歴史認識で1300年にわたって闇の中に陥れられてきた。
 人類が誕生していないこの列島にあっては、私たちは大陸からやってきた渡来人の末裔である。しかし、記紀認識では、この列島もそこに暮らす人々も神々によって生み出されたとしている。つまり、それは歴史の改ざんを美化しているに過ぎない。その動機は、以前の投稿でも触れてきたが、渡来人による激しい民族抗争の歴史を覆い隠すことにあった。
 東アジアにもおよぶ激しい民族抗争の末、今の我が国がある。ところが、その実態は秘匿され、日本人には何一つ真実は知らされていない。つまり、今もなお、改ざんされた架空の歴史認識で洗脳状態に置かれているのである。洗脳され騙されていることすら理解できないほどの状態に置かれ、その上、徹底して収奪されている。
 この列島の日本人を支配下にして騙し続けてきているのが唐王朝の残党勢力であり、民族的には東胡・鮮卑族であることは、これまで何度も触れてきた。
 匈奴の勢力の象徴であるスサノオ尊を奉る東出雲の熊野大社の地に「日」の大「本」で「日本」があり、それが「日本(ひのもと)」という国名のルーツだった。しかし、そういった歴史は、大陸を追われこの列島に逃避してきた唐王朝の残党勢力によって、ことごとく消し去られ、彼らにとって都合の良い歴史に塗り替えられた。それが記紀認識である。それまでの、この列島の歴史は、記紀認識によって一掃されてしまった。
 大陸においては、王朝が滅ぼされると前王朝の歴史が編纂され、「正史24史」といった史書が残されている。それだけ王朝の変遷があったことを意味している。
 この列島では、出雲王朝、当時の日本(ひのもと)が唐王朝に滅ぼされ、その歴史を残すために日本書紀が残された。また、それに付随して古事記や万葉集なども残された。そもそもの作成の動機は、そこにあった。
 しかし、そういった書物は、記紀認識に基づき、ことごとく改ざんされてしまった。そして、それらの書物から本当の歴史を知ることは極めて困難になってしまい、そこには数多くの疑問や矛盾に満ちている。
 だが、改ざんされていることが理解できさえすれば、疑問や矛盾の解決の糸口も見えてくる。
 その万葉集に詠われているのは、滅ぼされた出雲王朝であり、邪馬台国の姿であった。
 ということで、今回は、万葉集の中にある数多くの疑問や矛盾の一端を検証してみたい。

1、 万葉集における矛盾した解釈
 まずは、万葉集に詠われている歌の解釈にどのような矛盾があるのか見ていきたい。
 数多くある不可解な解釈の歌の中から主な4首について検証を加えてみた。

大和には 群山(むらやま)あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ あきづ嶋大和の国は(1-2)
 この歌は、第2首「国見の歌」とも呼ばれている。
 万葉集の歌の解釈で最も不可解に思ったのがこの歌だった。
 当時の大王が、奈良大和三山の香具山に登って自らの治める国を眺め、その美しさを愛でて詠ったというものである。
 ところが、奈良盆地には、海原や鴎が見えるような場所は何処にもない。もちろん、嶋など見えるはずもない。それついては、すばらしい国とはこうあるべきだといった架空の概念を詠ったと解釈されている。つまり、この歌は、想像や空想の産物だというのだ。
 また、あきづ嶋とは、トンボのような嶋を言うのだが、それもこの列島を詠んだとされている。地図も人工衛星もない古代にあって、この列島の全体像など知り得ない。それゆえ、その大王は、おそらくこんな形状をしているのだろうと思い描いたという訳だ。
 しかし、私には、この歌がそんな絵空事のような歌には思えなかった。
 現地にも行ってみたが、その香具山は、どこからどう登ったら良いのかも分からない程度の山でしかなかった。何の変哲もないその山を見て、私は、ますますそういった解釈はあり得ないと実感した。
 そこで、原文も含めて、さらに検証をすすめた、
 そうすると、第2首も含めて、『やまと』が、58首60箇所に登場しているが、万葉集の原文には『大和』という表記は1首たりともなかった。『倭、山跡、日本、夜麻登、八間跡、也麻等、夜萬等、夜未等』と記されたものが、奈良大和だと解釈されている。 
 原文には奈良『大和』という表記は1首もないのに、どうして、これらの地名のすべてが、奈良『大和』を意味していることになるのか大きな疑問となった。
 そして、万葉集に詠われている『やまと』が奈良『大和』だという認識は、万葉集には無いということが分かった。
では、第2首に詠われた『やまと』は、何処にあったのだろう。
 その『やまと』とは、当時の都を意味しているから、この列島の都が現在の奈良ではなく、何処か別の場所に存在したことになるのだ。
 そうなると、第2首が詠われた本当の場所を解明しようとすると、奈良盆地以外に当時の都を特定しなければならない。そんなことができるとも思えず、この時点で第2首の詠われた場所探しは、暗礁に乗り上げてしまった。

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山(1-28)
 次は、持統天皇作と言われている歌だが、通説では、持統天皇が奈良大和三山の中心あたりにあった藤原京の大極殿から香具山を眺めながら詠ったとされている。その大極殿があったとされている場所から香具山までは、1キロメートル以上はある。普通、それだけの距離が離れていると、山の上に何が干してあるのかなんて判別できない。
 さらに、私がこの歌について疑問に思ったのは、持統天皇がいったい何に感動したのだろうということだった。詠み人は歌に何かを詠い込む。それは、季節であったり、風景であったり、人であったりと千差万別ではあるが、そこからはその詠み人の思いが何かしら伝わって来る。
 しかし、この歌からは、持統天皇が何に感動し、何を伝えようとしているのかがどうしても理解できなかった。つまり、何らかのモチーフがあるはずだが、それがよく分からない。
 その上、第2首でも登場した、あの何の変哲も無い香具山を見て、何をどう感動したというのだろう。疑問は深まるばかりだ。

馬並めて み吉野川を 見まく欲り うち越え来てぞ 瀧に遊びつる (9-1104)
 万葉集では、美しい吉野の地が数多くの歌の中で詠まれている。そして、吉野には、吉野川が流れ、滝があった。
 その吉野は、奈良県の吉野だとされているが、そこに吉野川はあるが、滝などどこにもない。
 奈良吉野に宮滝という地名があり、そのあたりの流れが急なため、それを滝に見立てて詠んだとされている。急流といっても、普通の川の、少々流れが急だと言えばそうかなといった程度で、滝などとはとても言えるような景色ではない。

み吉野の 瀧もとどろに 落つる白波 留まりにし 妹に見せまく 欲しき白波 (13-3233)
 さらに別の歌では、「滝もとどろに」と詠われているように、相当な水量のある滝だったようで、そんな滝は、奈良吉野川には存在しない。

かはづ鳴く 吉野の川の 滝の上の 馬酔木(あしび)の花ぞ はしに置くなゆめ (10-1868)   
 また、別の歌では、その滝の上には、馬酔木の花が咲いていたとあるから、山の斜面の中腹から流れ落ちていたということが分かる。宮瀧のあたりの川の上は、ただ空だ。
 この吉野でも、第2首と同様、滝がないので、急流を滝に見立てて詠んだと解釈されている。
 つまり、奈良吉野には、万葉集に詠われているような情景は存在しない。したがって、万葉集に詠われる「吉野」は、奈良には存在していなかったということになる。
 万葉集には、吉野の地名が詠われている歌は、およそ60首もあるが、いったい、どこで詠まれたのだろう。

近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (3-266)
 この歌は、柿本人麻呂作で、通説では、人麻呂が、近江の海、つまり琵琶湖のほとりに佇んで、滅んだ近江大津宮を偲んでいたとされる。つまり、天智天皇が近江大津宮を造営するも、壬申の乱で大海人皇子、後の天武天皇に滅ぼされてしまうが、そのおよそ15年後に人麻呂がその大津宮や天智天皇を偲んで詠ったと解釈されている。
 しかし、15年も経った後に偲ぶくらいだから、人麻呂と近江大津宮とかなり深い関係があってしかるべきだが、それは全く分からず、それどころか、人麻呂自身がどんな人物だったかも謎だとあった。人麻呂と近江大津宮との関係も、大津宮でどういった地位だったのかなど一切分からないとのことだ。
 では、そんなに分からないことばかりなのに、どうして人麻呂がその大津宮を偲んでいたということだけは確かなのだろう。
 それに十年一昔と言うものの、この『古(いにしへ)思ほゆ』という表現が、そんなに近い過去だけを意味している表現には思えない。その地域やそこに暮らす人々を含め、もっと、何か歴史的な深い事情があるように思えるのだが、琵琶湖周辺にそんな歴史が残されているとも思えない。
 人麻呂は、その過去を思うと『心もしのに』、つまり、胸がしめつけられるほどに苦しくなると言っている。それほどまでに、悲痛な出来事や人麻呂の胸を締めつけるほどの歴史があったということになる。それが、壬申の乱だということになっている。
 しかし、人麻呂がその近江大津宮とどういった関係があったのかは、何も分からないということである。どういうことなのだろう。いったい人麻呂は、琵琶湖でどんな古(いにしへ)を偲んでいたのだろう。はたして、人麻呂とは、どんな人物なんだろう。


2、 中国の史書から、古代の都『やまと』に到達する
 この国の古代の都『やまと』は、どこに存在していたのだろうと探すも、この列島に残されている資料の何処を見てもその答えはなく、ほとんどお手上げといった状態であった。
 そんな、諦めかけていた時、ふと、この国の資料で分からなければ、中国の史書があるということに思い至った。この列島を代表する都なのだから、何らかの形で中国の史書に反映していても不思議ではない。暗闇の中で、一筋の明かりを見た思いだった。
 中国の史書を調べていくと、隋書に、隋の使者がこの列島の大倭王の居る都へやって来るとあった。その使者の道程が書かれているから、それをたどれば、この列島の都が何処にあったのかが判明することになる。
 その記述の中で、いくつかの国を経ると『海に達した』という表現があった。
 わずかな文字しか無い史書で、その使者の体験した中に描かれるほどだ。その使者は、大陸から海を越えてやってきているのだから、決して海が珍しい訳ではない。つまり、その使者は、内陸部のかなり険しい道のりを経て海の見える場所に出たのだろう。
 九州からその使者は東へ向かって移動している。瀬戸内海を船で移動したとすると、海に達したとは描かない。ましてや奈良大和であろうはずもない。瀬戸内海沿岸を移動したとしても、瀬戸内海が見え隠れしているから、同様に海に達したとは言わない。
 そうなると、中国山地を越えたのではないかと考えられる。今も、下関から日本海に抜ける国道9号線のルートがあり、そのルートを経て日本海側へ出たのではないだろうか。そうすると、そこは益田で、ちょうど、海に出たというエリアになる。
 そして、そこで歓迎の式典が催され、10日ほどして都から騎馬隊のお迎えがやってきて、その数、200騎とあった。
 これらの記述を見た瞬間、『これって、出雲?!』と、私の中に閃光が光ったような衝撃を覚えた。
 10日という距離感や、200騎もの騎馬隊で迎えに来るということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だろうと考えた。
 この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達した。
 そして、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都『邪馬臺国』と一緒だという記述もある。
 つまり、長年議論されている『邪馬台国』は、実は出雲に存在していたということにもつながった。
 出雲が、この列島の都だったという認識に到達すると、今まで謎だったことが次々と解明できた。
 さらに、『景初3年』の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことにより、出雲が都であり、かつ『邪馬台国』であったことは動かしがたい事実として確信を強めた。
 これで、この列島の古代の都が特定できたのだ。
 本当に、そんなことができたなんて自分でも信じられなかった。
 そうなると、第2首が詠われたのは出雲なのかもしれないと、いよいよ当初からの謎の解明に王手がかかった。


3、万葉集の解釈の疑問と謎が解ける
 思いもよらなかった出雲の出現で、万葉集の疑問と謎の解明へと進むことができた。
 では、それぞれを見ていこう。

大和には 群山(むらやま)あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ あきづ嶋大和の国は(1-2)
 たとえ出雲の地が当時の都だったとしても、では、どこで第2首が詠われたのかとなると、そう簡単には分からない。
 多くの山の中から、これが『天の香具山』だなどと特定するには、それ相当の根拠が必要となる。しかし、ひとつひとつ登ってみるわけには行かないし、ここでまた大きな難関が立ちはだかってきた。
 とりあえず、出雲について調べてみることにした。出雲風土記、出雲大社、熊野大社、八重垣神社、日御碕、宍道湖等々、あるいは荒神谷遺跡など謎の宝庫とも言えるほどに多くの歴史的遺産を残している。さすがこの列島の都だったことはある。
 その歴史を遡る中で、今は本州とつながっている島根半島が古代にあっては嶋だったことが分かった。それも細長い嶋だ。まさしくトンボのような形をしている。嶋だから、当然その周辺には海が広がっている。
 そして、日御碕の近くに経島(ふみじま)、あるいは御厳島(みいつくしま)と呼ばれて、古来より禁足地とされている島があることも分かった。その島は、ウミネコの繁殖地となっていて、12月頃におよそ5千羽が飛来し7月頃にはまた飛び去っていくとある。今は、ウミネコと呼ばれているが、鴎科の鳥だ。にわかに、鴎とウミネコの違いは分かりかねる。古代にあっては、鴎と呼ばれていたと考えられる。
 次第に、第2首の歌の条件が整ってきた。
 出雲は、たたら製鉄の国だから、製鉄やその加工には多くの木材を燃やす。 
 その煙が山や周辺のあちこちで立ち昇っていたことだろう。
 となると、あとはどこに大王がいたのかということだけだ。
 実は、あの出雲大社から大きな柱が発掘され、そこに32丈、およそ96メートルはあったかという当時にあっては超高層の神殿が建っていたことも明らかになっていた。そこに時の大王が君臨していたと考えると、その巨大な神殿の意味も見えてくる。何と言っても、この列島を代表する国家的象徴だから、出雲王朝の威信の表れといったところだろう。いよいよ大王の居所も特定できた。
 あとは、『天の香具山』を探すのみである。
 もし、出雲大社の地に大王がいたということになると、国見をする場所はその付近だと思われる。
 出雲大社の西に稲佐の浜がある。
 稲佐の浜と言うと、大国主命が『国譲り』を迫られた場所として古事記にも登場する。
 その浜には、予想通りウミネコが数え切れないほどに飛来していた。だが、ほとんど鴎としか見えない。
 そのウミネコの集団を確認すると再び出雲大社に戻り、日御碕へ向かった。そこにある灯台も見たが、ウミネコの繁殖地である御厳島も確認した。島の上一面がウミネコに覆われていた。
 こうして、出雲大社の地を検証したのだが、出雲大社周辺には確かに多くの山々があり、第2首で『群山あれど』と詠まれている状況とぴったりくることが確認できた。稲佐の浜から日本海が大きく見渡せるし、半島の南側も当時は海だったということになると、海原も間違いなくあったことも確認できた。
 ほとんど、第2首の詠われた地域として間違いないと確信した。
 そして、周辺の山々を地図で検証したのだが、実際に自分の目で見た印象と合わせると、出雲大社の北から東には標高100メートルから数百メートルの山々が連なり、そこは大王が気軽に登れる山とは言えないし、海や鴎から遠ざかってしまう。
 では、西側で大王でも気軽に登れる山となると、稲佐の浜沿いに奉納山という山がある。70メートルほどだから、まさしく手ごろに登れそうだ。
 さらに、出雲大社などに残されていた古絵図にも、ほとんどその奉納山が描かれている。
 これらの検証により、この『奉納山』と呼ばれている山こそが、『天の香具山』であろうという確証を得た。
 そして、奉納山のふもとに行くと、そこには神社があった。やはり、重要な意味を持った山だということが感じられた。その横を山に沿ってらせん状に上がって行ける様に道が整備されている。
 頂上に上がると、そこには、そんなに大きくはないが神社があり、鳥居が斜面のぎりぎりのところに設置してあった。
 この奉納山の頂上にも神社があるということで、この山、そしてこの頂上は重要な意味を持っているということを今に伝えていると改めてそれを確信した。
 奉納山は、4つの神社に囲まれているのだ。
 では、どういった眺めがそこから見えるのだろうということなのだが、その頂上には、展望台が設置してあった。当たり前のことだが、今も昔も見晴らしの良さに変わりは無かったということだ。
 早速、その展望台に上がると、それはもう感動ものだった。東は遠く東出雲のあたりまで見渡せ、西は出雲以西の海岸線が一望に見渡せる。そして、中国山地の山々や、広大な日本海が眼前に広がっている。
 第2首が詠われた当時、その山々からは、たたら製鉄の煙があちこちから立ち昇っていたことだろう。また、今は、南側、その頃の対岸との間は平地となり町並みが広がっているが、当時は海だったから入り江、あるいは内海といった、瀬戸内海のような美しい海岸線が見えたことだろう。
 そして、その山の周辺の沿岸には、御厳島から飛来する鴎(ウミネコ)が飛び交い、その声が鳴り響いていたことだろう。
 とうとう、探し当てることが出来た。
 千数百年も昔に、時の大王が国見をした場所に自分が立ち、その当時と景色は大きく変わったとは言え、第2首の詠み人と同じ視点から同様の景色を眺めていると思うと身震いがしそうだった。

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山(1-28)
『天の香具山』が出雲の奉納山だという認識に至ることで、持統天皇の詠ったこの歌も少しずつ理解ができていった。
 では、その原文を見てみよう。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
 夏来たるらしに『良』の文字が使用されているということは、持統天皇は初夏の心地よい気候の到来を全身で感じていたのだろうと考えられる。
 通説では、持統天皇は、藤原京の大極殿で奈良大和三山の香具山を見ていたことになっている。
しかし、第2首で『天の香具山』が、実は出雲大社付近にある『奉納山』だったということが分かった。
 そうなると、持統天皇は、奈良の香具山ではなく、当時の『天の香具山』、つまり『奉納山』を見ていたのではないかとなる。
 つまり、都が出雲にあったのだから、当然ながら持統天皇は、奈良ではなく出雲にいて、奉納山を見ていたのである。
 そして、奉納山である『天の香具山』は、何と言っても、持統天皇の祖先にあたるか、古の大王があの第2首を詠んだ山で、出雲王朝にとっては由緒ある重要な意味を持った山だったのだろう。
 それゆえ、持統天皇は、『天の香具山』を選んで詠んだのかもしれない。
 でも、たとえそうだとしても、歌に詠もうとした動機がまだはっきりとしない。決して、日ごろ目にする『天の香具山』が珍しいわけではないだろう。
 その時、なぜ歌に詠もうとしたのだろう。
 ただ、持統天皇が、奉納山を見ていたというところに行き着いたのは、大きな1歩前進だった。
 ところが、そこからは、逆に新たな疑問が生まれてしまった。
 たとえ、奉納山の頂上に神社があって、そこの神官の白装束が干してあったとしても下から見えることはない。
 しかし、持統天皇は、まちがいなく奉納山の上に干してある白妙の衣装を見ていたのだ。では、持統天皇はどうやってその白い衣装を見ることができたのだろう。
そこが見えるためには、それと同等かあるいはそれ以上の高さのある場所からでないと見ることはできない。
 その謎の答えは、必然的にそこへ到達せざるを得なかった、つまり、70メートル以上の高さがあって、女性の持統天皇が存在するにふさわしい場所だとすると、それはもうそこ以外には考えられない。
 それは、この列島の国家的象徴である『天』が君臨する場所としての、出雲大社の地にあった超高層の神殿だ。32丈、およそ96メートルはあったと言われているその神殿に持統天皇がいたとすると、『奉納山』の頂上を見ることができる。
 それ以外には考えられない。
 とうとう、持統天皇がどういったシチュエーションでその歌を詠んだのかが見えてきた。日ごろ見えるはずのない、奉納山の上が見えたので持統天皇は大きな驚きと感動を抱いたのだろう。つまり、『天の香具山』の頂上が見えたということを通して、その超高層の神殿に初めて上がった時の感動を歌にしたためたというのがその歌のモチーフだったのだろう。
 おそらく、持統天皇がその国家的象徴の地位に就き、その超高層の神殿に『初登庁』した折りに詠われたのがこの歌だったというのが私の到達した解釈だ。
 持統天皇は、その時の感動をこの歌に残したという結論に至った。
 
馬並めて み吉野川を 見まく欲り うち越え来てぞ 瀧に遊びつる (9-1104)
やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも(1-36)
 これは、第1巻第36首の歌だが、ここにはその『吉野』の風景や、そこがどういった地だったのかが、まとめて詠われている。つまり、『吉野』とはいったい何だったのかが描かれていた。
 『やすみしし 我が大君』とあるから、国家的象徴であるところの大王、すなわち『天』を意味することになる。そして、山や川があり清い河内にある吉野の国は、『秋津の野辺』、つまりトンボのような形をした島、今で言う島根半島にあったということになる。そして、大王は、そこにとても太い宮柱を建てたとあるから、それはその大王の君臨する超高層の神殿を意味している。そして、その近くには川があって、大宮人たちは、朝夕船に乗って競ったりしながら渡っていた。このような川のごとく絶えることなく、滝のある宮処は、いつまで見ていても飽きることがないと、吉野の地を詠っている。
 すなわち、その吉野は、秋津島であるところの島根半島にあり、山のように高い神殿があったということは、間違いなく現在の出雲大社の地に吉野があったことになる。
 『吉野』とは、国家的象徴であるところの大王が君臨する超高層の神殿が建っていた、現在の出雲大社のあたりを指していたのだ。
 万葉集に詠われている『み吉野』とは、出雲大社周辺を詠ったものだ。
 それほどまでに、美しい景観の地だったのだろう。
 さて、そうなると、吉野川や滝は出雲大社周辺にあったことになるのだが、現在にもそういった痕跡は残されているのだろうか。  
 出雲大社横の『古代出雲歴史博物館』の特別展示を見に行く機会があり、その折に、出雲大社周辺の古絵図が展示してあったので、それを見ていると、何と出雲大社の東側に小さい字だが『吉野川』という文字が目に入った。
 『吉野川だ!』
 紛れも無く、出雲大社横に流れている川の横に『吉野川』と書かれていた。
 隋書を読んでいる時に、『これは出雲?!』と、出雲が都だったことに気づいたことに続く、大きな驚きだった。まさしく、出雲大社横に『吉野川』があったことが証明された。
 そして、今でも『吉野川』は、出雲大社横に流れていた。
 古絵図を見ると、出雲大社の東側に吉野川が流れ、西側に素鵞(そが)川が流れている。その素鵞川は、出雲大社の東南のあたりで吉野川と合流している。まさしく、出雲大社の地は、その二つの河の内にある『河内の宮』と言える。
 さらに、吉野川の傍に滝があることもわかった。
 出雲大社の東側にある宗教法人出雲教北島家の庭園があり、その奥から滝が流れ落ちている。
 近くで見ると、滝つぼが池になっていて、かなり古くからあったような風情のある滝だ。平屋の屋根くらいの高さから流れ落ちていて、以前は嶋だったから海からでも見えそうだ。滝の上には、馬酔木(あしび)かどうかは分からないが、植物が生えていた。山肌から流れ落ちているから、その条件は整っている。その歴史を感じさせる風情のある滝は、ほとんど吉野の滝に間違いないだろうと確信した。
 とうとう吉野の滝に到達することができた。
 また、素鵞川にも滝があったようだが、水は流れてはいなかった。
 さらに驚いたことに、その北島家の社務所でいただいたパンフレットを見ていたのだが、吉野川の名称が『能野川』と書かれてあった。吉野川とはまた違った名前が残されているのだろうか。そして、何と読むのだろうと疑問に思った。
 熊とは違うが、当て字かもしれない、出雲の勢力の象徴は、熊野だから、『これはくまの川と読むのでしょうか』と聞くと、何と『いいえ、よしの川です』との返事だった。『能野川』と書いて『よしの川』という読み方が北島家には伝わっていた。
 そして、万葉集の歌を調べてみると、『吉野川』と詠まれている歌の中に、1首だけ原文に『能野川』の文字があった。
 
能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二(7-1134)

 吉野川 巌(いは)と栢(かしは)と 常磐(ときは)なす 我れは通はむ 
 万代(よろづよ)までに
 
 万葉集とは、万葉、つまり万世、よろづよ、いついつまでも続く、あるいは残されていくものだという意味での名称だったのではないかと推察される。
 
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (3-266)
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
では、原文も見てみよう。
 この歌のポイントは、『近江の海』、『千鳥』、『古(いにしへ)』にある。
 まず、人麻呂が佇んだとされる『近江の海』、これが琵琶湖だとされているのだが、琵琶湖は確かに大きいけれど、淡水湖であって決して海ではない。
 原文では、『淡海』となっている。
 次に『千鳥』だが、『千鳥』は、潟、干潟などにいるが、琵琶湖にそういった場所があったのだろうか。
 当時の琵琶湖に千鳥がいたのかどうかは分からないが、生態系が大きく変わっていなければ今もいてもいいのだが、どうだろう。
 そして、『古(いにしへ)』だが、人麻呂が、そんなに心を痛めるほどの歴史が琵琶湖にあったのだろうか。
 大津市の歴史博物館へ行き、琵琶湖の歴史を調べてみると、古代の頃に海とつながっていたようなこともなく、やはり淡水湖だった。
 近江大津宮の発掘調査がされた場所は、史跡として残されていた。それらの調査結果や琵琶湖の歴史なども『大津市史』に詳しく掲載されていた。
 近江大津宮跡地へ行くと、市街地の中に位置していて、すでに埋め戻されて整地され、公園といった状態だった。
 また、琵琶湖の眺めは良かったが、はたして千鳥はいるのか、あるいはいたような環境があったのかということも気になるところだが、潟や干潟といった場所を見かけることはなかった。また、近くの方にお聞きしても、千鳥は見かけないとのことだった。
 大津市史に近江大津宮の調査がどのように書かれているのか読むと、大変重要なことが分かった。
 当時、大きな建築物の柱や建材は、再利用することが結構あったと書かれていた。その地での利用が終了したとかで、移動したり、どこかで別の使われ方がされるなどといった時には、その建物を分解し、次の地で建て直すといったことが行われていたということだ。
 そして、その近江大津宮と見られる建物の跡地で発掘された柱の跡を調査したところ、間違いなく柱を移動させた形跡が残っていたというのだ。ということは、近江大津宮の建物は、何処かへ移設されていたということになる。
 これは、極めて重要な調査結果だ。なぜならば、日本書紀によると、近江大津宮は、炎上したことになっているのだ。しかし、その調査では、焼けたような痕跡は何処にもなく、柱はすべて綺麗に抜き取られ、何処かへ移設されたであろうという結果となっていた。
 そうなると、いったい壬申の乱で近江大津宮が焼き滅ぼされたという記述は何なのかということになる。そこにあった建築物は、近江大津宮の建物ではなかったのか、あるいは、近江大津宮はあったが壬申の乱で炎上していなかっただけなのか。また、近江大津宮も壬申の乱なるものもなかったのか。
 実際の近江大津宮があったとされる遺跡からは、日本書紀の記述を裏付けるものは無かった。人麻呂と近江大津宮との関連は全く分からない上に、近江大津宮すら本当にその地にあったのかどうかも分からないといったことになってしまった。
 そうなると、人麻呂が琵琶湖のほとりで佇んで滅んだ近江大津宮を偲んでいたというのも、全く根拠がないことになる。人麻呂が琵琶湖に佇んでいたという解釈は成り立たなくなる。
 ますます『淡海乃海』が、琵琶湖を意味しているのかどうかも疑問となってきた。
 では、『淡海』が近江、つまり琵琶湖を意味する根拠とされている万葉集の歌をもう少し調べてみることにした。

 鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ(2-253)

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
 『淡海』を詠っている歌を調べていくと、何と鯨魚(いさな)漁に出かけるといった歌があった。『鯨魚』とは、文字通りまさしく鯨だ。『近江の海』、つまり琵琶湖には鯨がいたのだ。
 そんなことはあり得ない。淡水の琵琶湖に、鯨は、過去から現在に至るまで存在してない。
 『淡海』が『近江』、つまり琵琶湖を意味しているというのは、万葉集の歌が根拠となっていた。
『淡海』が『近江』だとする通説の立場で解釈すると、琵琶湖には鯨が生息していたことになってしまう。
 『淡海』が『近江』、琵琶湖であるというのも『みなし解釈』の一つであったようだ。実際は、『淡海』は琵琶湖ではなかった。
 このように、『淡海』が近江・琵琶湖だという通説の解釈は、その根拠とされていた万葉集そのものによって、『淡海』は琵琶湖ではないことが明らかになった。
 したがって、それは必然的に人麻呂が古(いにしえ)を偲んでいた場所は、琵琶湖ではなかったということになる。
 では、人麻呂が偲んだ場所である『淡海乃海』とは、何処の海だったのだろう。
 この列島における古代の都は出雲だったが、その都は663年の白村江の戦いの直後に唐王朝によって滅ぼされてしまった。

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(1-48)
 これは、まだ幼き頃の人麻呂の作品だ。つまり、出雲王朝が健在だった頃に、人麻呂はその都の地に居たことになる。
 そして、その興亡を人麻呂は自らの目で見ていたのだ。
 出雲の地にあった美しい吉野に高く聳え立っていた超高層の神殿、そこに高く光り輝く国家的象徴であった『天』、『大君』などの大きく栄えていた頃の出雲王朝を称える歌を人麻呂が残している。
 その一方で、出雲王朝が滅ぼされていく無残な姿をも見ていた。
 それを人麻呂は目にしていたと思われる歌が残されていた。
 人麻呂の脳裏に、鮮烈に残る記憶ではなかったかと思われる。

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
  現在、原文の『炎』を『かぎろひ』と読ませているが、以前は『けぶり』だった。
 その『かぎろひ』とはいったいどういった現象なのだろうといった研究もされているが、原文では、普通に『炎』だから、何か『かぎろひ』といった特別の状態を詠ってなどいない。 
江戸時代に賀茂真淵が『かぎろひ』と解釈したようだが、その『かぎろひ』という現象を研究しても、そこからは何も解明されない。これも、一連の『見なし解釈』だ。『炎』を、殊更何か違った現象のように描いているようだが、どうして『かぎろひ』でなければいけないのだろう。
 さて、この歌を人麻呂がどういった思いで詠ったのかだが、東の方向に『炎』が立っている所が見え、そして一方、月は西へ傾いていると詠っている。ということは、まず昼間ではないことは明らかだ。そして、『月西渡』ということは、そこにはある一定の時間が経過していることも分かる。南天に見えていた月が、今は西に傾いているということは、その月は、上弦の月に近かったと考えられる。
 また、そこには、決して楽しい思いが込められているようには感じられない。月が沈むように、何かが沈んでいくことをそこにダブらせているようだ。
 そして、東の方向には、あちこちから火の手が上がっていたのだろう。人麻呂は、緊張しながら、あるいは震撼としながらその『炎』を見ていたのではないか。迫り来る恐怖感を詠っているようにもとれる。それも、深夜にかけて炎が立ち昇るといったことだから、それはただならぬ事態を意味している。
 出雲王朝と大きな関わりのあった人麻呂がそこまでの大事件に遭遇しているとすれば、その出来事は、出雲王朝が唐王朝によって攻撃された時の事ことだと考えられる。
 それは、白村江の戦いの直後、つまり663年秋、おそらく9月頃からこの列島は攻撃され出雲には10月頃やってきたと考えられる。それも、旧暦の10月10日だった。その前日は、半月、上弦の月で、その翌日にあたる。その日は、日没の頃に南に月が出ているが、夜半になると月は西へ傾く。その日、出雲は、唐王朝の軍勢の攻撃にさらされていたのだろう。その戦乱の中に、人麻呂もいたと思われる。しかし、当然ながら戦死はしていない。さらに、戦闘している状況でもない。つまり、人麻呂は、戦士でもなければそういった年齢にも達していなかったと考えられる。
 おそらく、人麻呂は、出雲王朝の言ってみれば『皇太子』的存在で、その時、出雲大社の地にあった超高層の神殿の上にいたのだろう。その下では、多くの兵士たちが守っていたと思われる。
 つまり、この歌が詠われたのは、その神殿の上だと考えられる。
 その神殿から西は海だから、人麻呂は、東方向に広がるいわゆる国原で、建物に火がつけられ、あちこちで大きな炎が燃え上がるのを見ていたのだろう。この列島の都、『やまと』の炎上だ。
 その方向には、出雲国庁跡がある。そこは、当時の都の中枢で、今で言えば、永田町だ。この時に、その出雲国庁跡にあった建物が焼き討ちされたと考えられる。その場所から発掘された柱には、焼けた痕跡が残されている。つまり、隋書でも記されていたが、『天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』と出雲王朝の使者がその国家形態を述べている。『天』は国家的象徴で、『日』は、実質的支配者だ。今で言えば、天皇と総理大臣といったような関係だろうか。
 その『天』がいたのが出雲大社の地で、『日』である実質的支配者の大国主命がいたのが出雲国庁跡地にあった大宮処だ。その場所の地名は、大庭である。
 この戦乱で、実質的支配者であった『日』の勢力は、殲滅されてしまった。
 しかし、『天』は、後の支配のために残された。だから、人麻呂は殺害されることなく『生かされた』のだ。
 その時に殺戮されたのが、実質的支配者『日』である『大国主命』で、10月10日が、その命日として、今にまで伝えられている。しかし、今の出雲にそういった認識は残されていないが、『神在祭』の前日、旧暦の10月10日の夜に稲佐浜で行われる『神迎祭』の神事は、それを伝えている。その殺戮現場は、当時の海岸に位置する『奉納山』のふもとにある『仮宮』の地だ。
 これらのことは、記紀にも残されている。武甕槌神(たけみかづちのかみ)が、今の稲佐浜で大国主命に『国譲り』を迫り、大国主命は、自らの支配する国を『献上』したとされている。つまり、侵略者に都合よく献上されたと描かれているが、実際は、殺戮の限りがつくされた。それは、中国に残されている資治通鑑などの史書にも描かれている。
 当時の実質的支配者であった大国主命は、『天』の守護の為に出雲大社の地にいたのだろう。しかし、唐王朝によって殺害されてしまった。その時の悲痛な叫び声が、神迎祭で再現されている。
 この戦いの折りに、彼らの象徴であった銅剣などが秘かに埋められたのが、荒神谷遺跡だと考えられる。そこから発掘された銅剣の数は、当時の出雲の神社の数にほぼ匹敵する。
 そして、その大国主命を偲んで毎年、全国から神々が、出雲に弔いにやって来ることになった。それゆえ、全国では『神無月』、出雲では『神有月』と言われている。そして、その神々が集合するのは、『奉納山』のふもとの『仮宮』である。大国主命やその家臣たちの殺戮された場所で、冥福を祈るという行為なのだろう。
 しかし、そういった認識は現在の出雲にはない。そういった認識すら残すことが許されなかったのだろう。
 これらのことから、この第48首は、西暦663年10月10日(旧暦)、この列島の都『やまと』が陥落した時の歌だと考えられる。(新暦では、663年11月18日に相当する)
 『月西渡』には、この列島が西国『唐』の手によって征服されたことを意味しているようにも思える。
 そして、人麻呂が後年『古(いにしへ)思ほゆ』と偲んだその対象は、この滅ぼされた出雲王朝のことだという認識に至った。
人麻呂が偲んでいたのは、唐王朝に滅ぼされた出雲王朝だということになると、その場所はもちろん琵琶湖などであろうはずもなく、出雲の地ということになる。
 そして、『淡海の海』に該当する場所は、必然的に今の宍道湖ということになる。
 島根半島は、古代にあっては島だったが、人麻呂の時期には本州と繋がっていて、宍道湖が誕生していた。宍道湖は塩分が薄く、まさしく『淡い海』で、当時、千鳥がいたという歌も残されている。
 
 意宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに(3-371)
  『意宇の海』とは、東出雲の辺りの海に相当する。出雲の勢力にとっては、聖地とも言える熊野山(今の天狗山)を源流とする意宇川が、熊野大社や出雲国庁跡、つまり当時の大宮処の側を流れ、『淡海の海』に注いでいて、その河口周辺の海を言う。
 その辺りに、千鳥がいたと詠われていた。
 斐伊川から流れ出る膨大な量の土砂は、本州と『あきづ島』をつなげ、島根半島を形成することにより宍道湖が誕生した。今も、斐伊川の河流域には土砂があふれている。
 つまり、当時の宍道湖畔は、あちこちに砂洲が広く存在していた。そこに千鳥が、餌を求めてやって来ていたのだ。現松江市の宍道湖畔には、『千鳥』という字名もある。そこには、『千鳥公園』があり、宍道湖の綺麗な眺めを一望できる。今も、宍道湖では千鳥の姿を見ることができる。
 第266首の歌は、人麻呂が、滅ぼされた出雲王朝を偲んで、宍道湖の辺に佇んで千鳥の声を聞きながら詠ったであろうという解釈に至った。
 それは、出雲王朝の滅亡という大きな悲劇に遭遇した人麻呂の苦悩が背景にあった。
 宍道湖の夕日は、今も変わることなく綺麗だ。人麻呂は、その宍道湖の夕日を眺めながら、出雲王朝の栄えていた頃や滅亡の悲劇、あるいは、亡くなったり、遠くへ逃亡していった人たちに思いを馳せながら偲んでいたのであろう。 
 従って、『淡海乃海』は、宍道湖だったということになる。宍道湖は、海にも繋がっているから、鯨漁にも出かけることができる。日本海には、南氷洋にいるような大型の鯨はいないが、小型の鯨は、今も捕獲されることがある。
 
4、 万葉集を編纂した人麻呂・・・出雲王朝のラストエンペラー

  人麻呂は、晩年、都における出雲王朝のラストエンペラーとしての役割(聖武天皇)を終えて、久しぶりに『やまと』の地に帰りついた。そして、滅ぼされた都のあまりにも荒れ果てた様子を見て、嘆きの中でいくつかの歌を残していた。
 
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも (2-167)

ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜(を)しも(2-168)
 出雲の地にあったこの列島の都『やまと』の歴史を振り返り、その古(いにしへ)より栄えた姿を偲んでいる。
 そして、そこにいた大宮人たちは、今は何処へ行ってしまったのか、その消息すら分からないと嘆いてもいる。
 その反歌でも、久しぶりに見る御門(みかど)は荒れてしまい、口惜しい思いをしている。
 出雲の地に栄えた都『やまと』の荒廃した姿に、人麻呂はその悲しみを詠い残している。

ひさかたの 天の香具山 この夕(ゆふへ) 霞たなびく 春立つらしも (10-1812)
  
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世(とこよ)まで (3-261)

高照らす 我が日の皇子の いましせば 島の御門は 荒れずあらましを (2-173)
 人麻呂は、久しぶりに見る『天の香具山』、今の奉納山を眺めてもいたようだ。
 さらに、この列島の国家的象徴である『日の皇子』は、いつの世までも輝き続けるものだと、その栄華を後々の世にまで伝えようと詠っている。
 ところが、その都『やまと』は滅ぼされ、『日の皇子』も都から消されてしまった。
 その『日の皇子』が、いつまでも高い所から、つまり超高層の神殿に君臨していたら、この島の御門は、荒れるようなことにはならなかったのにと、出雲王朝の滅亡を嘆いている。

高照らす 我が日の皇子の 万代(よろづよ)に 国知らさまし 嶋の宮はも(2-171)
  しかし、人麻呂は、その都であった『やまと』は滅ぼされてしまい、今や荒れてしまっているが、高所に光り輝いていた『日の皇子』の歴史、すなわち『やまと』の国や、『あきづ島』にあった大宮を万世、後々の世まで伝え残していかなければいけないと詠っている。
 これは、人麻呂のある一つの動機、あるいは決意といったものを述べているようだ。この列島の都だった『やまと』、その栄華盛衰を後々にまで伝えていこうと、相当な決意を詠っている。
 つまり、これこそが、『万葉集』編纂の動機だと考えられる。出雲王朝に伝わる歌の数々、そして、何よりも都だった『やまと』の姿を残そうとしたのではないだろうか。
 そこには、人麻呂自身がその人生の中で体験したことや、この列島の各地の姿もちりばめられている。
 つまり、万葉集の編纂者の立場にあったのは、ラストエンペラーであった人麻呂自身ではなかったかと思われる。それゆえ、万葉集の基本的視点は、人麻呂の視点で貫かれているように感じる。
 そして、人麻呂が出雲の地に帰り来て、その荒れ果てた『やまと』の姿を見た直後に、『伝え残さなければいけない』という大きな衝動が、人麻呂の中に生まれたのではないだろうか。
 その後、人麻呂は、出雲の地で万葉集の編纂の作業に取り掛かり、万世(よろずよ)に伝え残そうと、万葉集を造りつつ、最後の最後まで、命のある限り、人麻呂は詠い続けたと考えられる。

新(あらた)しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)(20-4516)
 新年を迎えたが、年の初めの初春の今日降る雪のように、ますます重なっていけ良い事よ。
 これが、万葉集第20巻第4516首、万葉集の最終歌だ。
 私は、この歌が人麻呂最後の歌だと考えている。

あとがき
  出雲王朝の姿を、ラストエンペラーの人麻呂が万葉集として残した。
 出雲王朝は、スサノオ尊から始まるが、倭国大乱という激しい民族抗争の末、打ち立てられた。
 そして、スサノオ尊と卑弥呼によって、新しい国づくりがすすめられた。
 出雲の国は、大国、邪馬台国で、卑弥呼の国は、一国、邪馬壹国とされた。
 その国名は、「一」と「大」を合体させると「天」になることに起因する。
 つまり、両国の統合によってこの世界が造られていくという概念を国名として体現化したものだ。
 そして、その両者は、双方の国を表敬訪問している。
 そのおりに、スサノオ尊は巨大な太刀を、卑弥呼は、数多くの銅剣を持参している。
 卑弥呼の居た地に都万神社があり、そこに62キロもある我が国最大の刀剣が奉納されているが、あるいは、スサノオ尊の体重だったのかもしれない。卑弥呼が出雲を訪問した時に、数多くの銅剣を贈っているが、それが荒神谷遺跡から出土したものだと考えている。 
 卑弥呼が出雲を訪れた時に、両者は、天の香具山で国見をした。
 その時に卑弥呼によって詠われたのが、第二首「国見の歌」だと考えている。
 そして、第1首は、スサノオ尊の歌だ。
 和歌、大和歌は、スサノオ尊から始まっている。
 八雲たつ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を といったスサノオ尊作の歌が今に伝え残されている。
 ラストエンペラー人麻呂によって、出雲王朝に伝わる歌が編纂された。
 万葉集は、ある意味、出雲王朝を伝えるタイムカプセルでもある。
 そして、それは、同時に邪馬台国を伝え残しているのである。
 やまと、吉野、近江は、出雲の地名だった。
 しかし、唐王朝に占領征服されたのちに、近畿地方の地名とされてしまった。
 万葉集は、特に題字、誰が詠んだのかといったところは、後の時代にかなり手が加えられている。
 西暦663年に唐王朝にこの列島が占領征服されて以降、政治・経済・文化・歴史などなど、あらゆるものが、唐王朝によってことごとく彼らに都合よく作り替えられてしまった。
  そして、日本人は、それ以降徹底した制圧下におかれ、あらゆるものを奪われ、歴史までも奪われてしまった。
それゆえ、我が国に残されている歴史的文献から本当の歴史を知るのは、極めて困難である。それを知る唯一の手掛かりは、中国に残されている史書に頼るしかそのすべはない。しかし、唐王朝武則天の時代に我が国に関わる歴史が改竄されており、それが歴史改竄の根源となっている。
 そして、その武則天の時代にこの列島が制圧されたので、この列島は、それ以降武則天の手下である武士によって延々と支配されていく。
 そして、武則天が命名した天皇がこの列島の占領のシンボルとして今も我が国に存在し続ける。
 つまり、今も、この国は、唐王朝の残党勢力の支配下に置かれたままなのだ。
 唐王朝李氏は、朱全忠らに滅ぼされ、この列島に逃避してきて、岸を名乗った。李という文字は、「木」と「子」に分けられる、つまり、「き」と「し」で『岸』なのである。
 日本人は、1300年にわたって延々と彼らに支配、収奪され続けているのである。
 そして、彼らの大陸における唐王朝再興という野望の手先として再び利用されようとしている。